名月も近いというのに、今日も夕方から激しい雨が降り、まだ今月の月を見ていない。
それでも気分だけはということで、常矩撰の『俳諧雑巾』から、月の句を拾ってみよう。常矩は許六が「中ごろ談林の風起て急ニ風を移し、京師田中氏常矩法師が門人ト成て、俳諧する事七・八年、昼夜をわすれて、一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す。」と『俳諧問答』に書いているように、許六にも大きな影響を与えた人のようだ。
巻末には秋風の独吟もある。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のときに秋風の花林園を尋ねている。
百合若もちりけをすへんけふの月 さは
鉄弓をふるう豪傑も、月を見ながら肩にお灸を据えてもらって癒される時もあったのか。百合若の御台所の視点に立っている。
月見というとやはり酒で、
あき樽や明夜うらみん牖(まど)の月 廣干立
酒家の門明てうらみなしけふの月 不水
樽が空になると恨み、酒屋の門が開くとうらみなし。二句セットになっている。
秋は月聾(つんぼ)に盲(めくら)影もなし 一之
これはちょっと芸がない。
盲より唖のかハゆき月見哉つきみかな 去来
の句には及ばない。このネタは、
座頭かと人に見られて月見哉 芭蕉
に窮まるといっていいだろう。
月夜よし酒屋芋売須磨明石 常矩
名月といえば酒だが「芋名月」という言葉もあるくらいで、この日は芋を供え、また芋を食う。この句は酒屋と芋売りが須磨明石のように月によく付くということか。
たづぬべし月は日来の芋畠 尒木
月を見るなら須磨明石もいいが、まずはそこいらの芋畑でということか。
ほれば月青葉の波の疇よりこそ 陳次
これも芋ネタで、芋畑の疇(うね)を青葉の波に見立て、そこを彫れば月のような芋がある。この頃の芋はサトイモ。葉は大きく、波も腰から胸というところか。
楊枝の猿こよひの芋を望みける 可因
「楊枝の猿」は「猿屋の楊枝」のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「江戸時代、猿を看板にして楊枝を売っていた店の称。特に、京都粟田口、江戸浅草・日本橋照降町などにあった楊枝屋が有名。一説に、猿は歯が白いところから楊枝をいうとも。猿屋。猿屋楊枝。〔仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)〕」
とある。楊枝の看板のあの猿も今夜は芋が食いたそうだ。
心ある下女がたもとや芋の月 宗雅
下女が袂に芋を入れて差し入れに来てくれるとは気が利いている。
月の塩河原の院の芋なりける 如生
「河原院(かわらのいん)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「東六条院ともいう。平安時代初期,嵯峨天皇の皇子源融 (みなもとのとおる) の別荘。京都六条大路の北,東京極大路の西にあった。庭に陸奥塩釜の風景を模した山や池を造り,毎日,難波の浦から運ばせた海水で塩焼きをしたという。融の死後,その子の湛が宇多上皇に献じたが,上皇の死後,寺とした。 (→平等院 )」
とある。
月の光の白さを塩に見立てて、唯の芋も河原の院の芋になる。
親芋や心のやみもけふの月 一帆
親芋は徒然草第六十段の盛親僧都の芋頭のことか。
「いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚さめぬれば、幾夜も寝いねず、心を澄ましてうそぶきありき」
とあり。心の闇も親芋で晴れる。
けふや月三百貫を楊枝にふる 定房
も同じ盛親僧都の芋頭が出典か。
浮世哉つきにはまふた芋に砂 杉風
蕉門から杉風の登場。「はまふた」がよくわからない。
月ひとつこよひぞ菜汁の最中なる 秋風
みんなが芋だ芋だと言ってるときに菜汁とは、やはり金持ちは違う。
水に影三五の月や一二ノ二 常二
三五は三×五で十五夜のこと。貞門に、
松にすめ月も三五夜中納言 貞室
の句もある。元ネタは白居易の「八月十五日夜禁中独直対月憶元九」の「三五夜中新月色」。
三五の月も水に映れば揺らいで見えて一、二、二となる。
後に芭蕉は、
名月や池をめぐりて夜もすがら 芭蕉
の句を読んでいる。これを平仮名で縦書きにしてよく見ると、めいげつ、つ(や)池(を)めと、池に名月が逆さになって映っている。
名月の芋への情熱は言水撰『東日記』にも見られるが、やや違ったものになる。
芋洗ふ翁影を濁すな神田川 蒼席
月を見て酒に芋といういかにも庶民的な感覚から、芋洗ふ翁といういかにもいそうな人物を登場させ、川に映る月を濁すな、と展開する。
芋洗ふ女に月は落にけり 言水
芋を洗っているのを女の色気には、月のような僧も落ちるか。これを発展させると。
芋洗ふ女西行ならば歌詠まむ 芭蕉
の句になる。
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