今日も晴れて気温も上がった。夕暮れには半月よりやや膨らんだ月が見えた。明日の夜には台風が来るらしい。
さて、それでは第三だが、
爰に数ならぬ看板の露
新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て 紀子
紀子についてはよくわからないが、言水撰の『東日記』(延宝九年)に、
年忘れたり跡へは取にかへられず 紀子
の句がある。
延宝五年に千八百句独吟を行い延宝六年五月に『大矢数千八百韵』を刊行した大和国多武峰寺塔頭西院の僧、紀子と同一人物かどうかもよくわからない。俳号がかぶることは時々ある。
岸和田市のhttps://www.city.kishiwada.osaka.jp/uploaded/attachment/1248.pdfという短冊目録(江戸時代)のファイルに、「紀子、我袖や、俳諧、『江府住人 我袖や』」というのがあるから、多武峰の紀子とは別に江戸の紀子がいたと考える方がいいのだろう。
句の方は、『校本芭蕉全集 第三巻』の注が『源氏物語』澪標巻の、
数ならぬ三島がくれになく鶴を
けふもいかにと問ふ人ぞなき
の歌を引用している通り、この歌を本歌にしながら、前句の「数ならぬ看板」を蕎麦屋の看板として、閑古鳥ならぬ鶴の鳴く問う人もなき風情としている。
四句目。
新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て
芦の葉こゆるたれ味噌の浪 卜尺
卜尺(ぼくせき)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、
「?-1695 江戸時代前期の俳人。
江戸日本橋大舟町の名主。はじめ北村季吟に,のち松尾芭蕉にまなぶ。延宝年間江戸で宗匠となった芭蕉に日本橋小田原町の住居を提供した。延宝8年「桃青門弟独吟二十歌仙」に参加。元禄(げんろく)8年11月20日死去。通称は太郎兵衛。別号に孤吟,踞斎(きょさい)。」
とある。
喋々子撰の『誹諧當世男(はいかいいまやうをとこ)』(延宝四年刊)に、小澤氏卜尺と記され、
丸き代やふくりんかけし千々の春 卜尺
まま事の昔なりけり花の山 同
たぞ有か編笠もてこいけふの月 同
ふぐ汁や生前一樽のにごり酒 同
の句がある。それ以前の松意撰『談林十百韵(だんりんとつぴゃくゐん)』(延宝三年刊)にも多くの句が選ばれている。
醤油が普及する前の江戸では、蕎麦はたれ味噌で食べていた。
田鶴に芦とくれば、
若の浦に潮みちくれば潟をなみ
葦辺をさして田鶴鳴き渡る
山部赤人
の歌の縁とわかる。
「芦の葉こゆる」は、
夕月夜しほ満ち来らし難波江の
あしの若葉を越ゆる白波
藤原秀能(新古今)
を證歌としている。
新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て
芦の葉こゆるたれ味噌の浪
と和歌の形にして読めば、「新蕎麦や」の「や」は疑いの「や」として、このあとに比喩として「三嶋がくれに田鶴鳴て芦の葉こゆる」ような至高の「たれ味噌の浪」となる。
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