中南米の強豪にびしっと守られてしまうと手も足も出ないという感じだったね。完全に蛇に睨まれた蛙状態で、すっかり委縮してコスタリカに楽に守らせてしまった。
ドイツとスペインが引き分けで混戦になった。とにかくあとはスペインに勝つしかない。
中国がどうなっているかは情報が少ないのでよくわからないが、独裁国家に対しては中国人だって戦っているんだと思うと、我々が降伏してどうするんだという所だ。
それでは「情と日本人」の続き。最終回。
「情はエゴイズムで濁ってはいけない。生き生きしていなければいけない。また、宣長が歌に詠んだように、諸情緒が絢爛と華やかでなければいけない。教育はこれを目標とすべきです。」(p28)
エゴイズムという抽象的で西洋的な概念はもう少し見直す必要があるだろう。基本的に情は利己的なもので、「情けは人の為ならず」というのは自分のためになるからだ。だから、形而上学で理屈をいじくってエゴイズムがどうのこうのと論じるべきではない。本居宣長が現代に生きてたら西洋意と言うところだろう。
また、情が絢爛と華やいだところで、基本的に限られた生産量で人口が増えれば人は過酷な生存競争にさらされる。そして情というのはその生存競争に勝って進化してきたものだ。
根本的な所で生産性の向上と人口抑制というものがないなら、豊かな感情の花も過酷な生存競争の夏草に埋もれてゆくことになる。
自然な情は自然の争いを生む。理性は思想の争いを生む。意志は意志同士ぶつかりあってやはり争いを生む。争いの根底にあるものを解決しなければ、いくら豊かな情を解放しても、哀れと悲しみの涙を解放するだけだ。
「今の日本は情が濁ってひからびてしまっている。これを早く変えなければ大変なことになってしまう。そう思うのです。充分に膚で分ってほしいですね。なんか私がいっている間だけ、なんとなくそういう気がするが、済んでしまったら忘れてしまうんでしょう。そういうものなんです。」(p28)
むしろいつの時代でもどこの国でも人間の情は変わらないんだと、それを信じるべきだと思う。ただ、思想の支配がそれを抑圧しているだけで、この「情と日本人」がドグマとして一つの思想や教条として受け継がれるなら、結局それがまた健全な情を抑圧することになりかねない。
自然な情で物を言っているのに「お前の情は濁ってる」だとか言うことになる危険がある。一つの哲学として情が思想の支配下に置かれると、正しい情と間違った情が教条となって、それによってヘイトと暴力がまかり通ることになる。それだけは防がなくてはいけない。それは岡潔さんの意図に反することなのは言うまでもない。
大事なのは岡潔さんが残した言葉を理論として受け止めるのではなく、あくまでその情を引き継ぐことだ。言葉は違ってもいい。言ってることが違って、感情を思想的な抑圧から解放することが大事だ。
「肌でわかってはほしい」というのはそういうことで、「頭で分って」なんて言ってはいない。
「人類というのは音楽が割合よく分るんですが、情が流れているとそれを感じるんでしょう。流れが止むとそれを覚えていないんでしょうね。見極めないから存在まで行かないのでしょうね。見極めるには自分で情を働かさなければ。人の動かすのをただ情的に感知するに留めておくから、その人の情の動きがなくなると一切がなくなってしまう。」(p28)
この見極めは情で見極めるのであって、論理や思想で見極めるなら情は抑圧され失われる。情から理性を湧き興すのであって、情と理性を対立させるのではない。だから「見極めるには自分で情を働かさなければ」とある。
理論を学んでそれで情をコントロールするというのが西洋式の考え方だが、そうではなく情に基づいて理論を絶えず湧き興し、情に基づいて修正し、情に基づいて再構築を繰り返す。
簡単なことで、どんな理論も最初の仮説は情から沸き起こる。そしてうまく行かなければ絶えずそれを修正する。絶えず修正や再構築を繰り返すうちに理論は真理の近似値を取るようになる。
ところが人は得てして一つの理論を作ってしまうとそれに縛られる。修正したくてもそれをすると「ぶれた」などと言われる。それを恐れて理論をかたくなに守り、情をそれに合わせようとして情を抑圧し、ゆがめてゆく。
一つ理論を立てても矛盾を恐れてはいけない。「人生というのは矛盾したものだ」と多くの人が言うとおりだ。そもそも無矛盾の論理体系なんてものは不可能だ。
他人の指摘に従って情を硬直した理論に封じ込めてゆけば、情の動きがなくなり「非情」になってゆく。大事なのは自分の情だ。
「自分の情を動かす。自分で見極めなければいけない。それをやってほしい。これが知性の教育なんです。知が大事だっていうなら、学校はこれをやらなければいけないのです。自分で情を動かして、情の目で見極めるということを充分やらなけらばいけないのです。どんなにやらしても、やらし過ぎるということはない。」(p28~29)
教育においては教条を叩きこむのではなく、自発的な思考を促すのが基本になる。「自分で見極める」ことが大事で、他人が勝手に見極めていいものではない。
批判は問題点の指摘にとどめるべきもので、徹底的に論破すべきものではない。そもそもどんな大哲学者の思想だって結局はその人個人の感想にすぎないのだから、凡人が自分の感想を述べることは当たり前のことだ。
思想というのはその人の情に基づいて、その人個人の試行錯誤の上に組み立てられた一つの感想の体系にすぎない。「それはあなたの感想でしょ」というなら、「その『あなたの感想でしょ』はあなたの感想でしょ」ということになり、その「『あなたの感想でしょ』はあなたの感想でしょ」もあなたの感想でしょということになって、きりがない。
思想はみんなその人の感想にすぎないんだから、そこに思想信条の自由というものが有る。特定の思想が正しくて、あとのは間違ってるというのなら、思想信条の自由は存在しない。独裁あるのみだ。
教育は特定の思想を吹き込むのではなく、一人一人の感想の体系を育てることだ。自分自身の情に基づいて、自分自身の感想を育てて行く。それが必要だ。
「何しろ難しい問題です。松とか竹とかが分るのは知だといって放ってあるでしょう。これが世界の人の目です。はなはだここは見えにくい。よく見てみると情が分るからです。松の趣というものが情で分るから、それで松とか竹とかが教えられるんですね。」(p29)
知の成立はまず情によって引き起こされ、その感想を投げかけ、その繰り返しによって朧げな概念が形成される。この概念は情を伴うもので、情と不可分な知識として成立する。
知識の成立過程を見ずに知識が最初からあるものと考えてしまうのは、まさに「初めに言葉ありき」の発想だ。言葉によって知識が成立するのではない。個々の非言語的に形成された経験の蓄積に、他人の言った言葉がぴたっと当てはまったとき、初めて知識は言葉になる。
西洋の文化はこの言葉にもたらされる過程を見ずに「初めに言葉ありき」から始める。そして「言葉が自分」で、肉体の衣を着ていると考える。そこで松や竹でも何かしら松一般、竹一般の普遍的な概念が先験的に存在するかのように考える。
どうしてそれができたか説明がつかないから、プラトンは想起説(アナムネーシス)などといって前世を持ち出してそれを説明している。なら前世でどうやってそれを獲得したかというと、それも説明できないから前前前世と延々と遡ってゆくしかない。ニーチェはこれを永劫回帰と呼んだ。
クリスチャンはこれを「言葉は神なりき」の一言で解決する。
「情が働かなかったら教えようがない。盲に自然を教えようとするようなもの。知の地図の上に描くのが意志であり、情あるが故に言葉も有り得る。そして形式も有り得る。それが知。根本は情だということを充分自覚してもらわなければいけない。」(p29)
めくらの比喩は正確ではない。知覚にどのような障害があろうとも、それは自然の認識の妨げにはならない。なぜなら知覚は情報処理の道具にすぎないからだ。道具の不備で自然に関するある種の情報が欠落するだけで、その部分は他の情報で補うことで自然を認識している。そのため盲に自然を教えるのは何ら難しいことではない。
そもそも健常者だってこの宇宙の情報のほんのわずかしか感じることができないんだから、五十歩百歩というものだ。我々は量子を見ることはできないし、多次元時空を感じることもできない。もしそれを感じることができる生命体がいたなら、我々はみんなめくらということになる。
意思は知の地図の上に描かれ、その地の地図を作るのは情の働きだ。「形式」というのは形式論理学的な意味での論理形式のことだろうか。平たく言えば「理屈」だが、言葉も理屈も情の上に成立する。
めくらの比喩はむしろ今日ではAIに自然を教える難しさと考えた方がいいかもしれない。AIは情を持たず、あらかじめプログラムされた論理に基づいて論理を「自発的に」学習する。それは自発的に学習せよと命令されているのであって、その自発性に情はないし自由もない。
AIは言葉も形式もあるが情はない。人間の情を解析してそれに似たものは作れるかもしれないが、情は存在しない。ジョン・サールの中国語の部屋の比喩のようなものだ。
「人本然の情に従うのが道徳である、といった人が一人もいないというくらい人類は馬鹿なんです。それで世界がうまく治まる訳がない。だけど一人もいませんよ。
儒教なんか見てますと、仁が基だといっているのに、その仁が情だとはいっていないんだから、余程わからないのですね。仏教の修行を見てご覧なさい。意志で修行しようとする。それで多くは難行。苦行です。大抵そうです。」(p29~30)
これは前にも述べたように偏見であって、「盲に自然を教えようとするようなもの」と同様に偏見と言わねばならない。
情から知への過程は試行錯誤であって、だから情は間違ったこともたくさん言う。ただ硬直した教条(ドグマ)と違って、修正が利く。絶えず修正することで知の精度を上げてゆくことができる。だから、岡潔さんがこういったからと言って、それを教条にしてはならない。
「情が本体であるということを知って、まっ先に教育を変えなければいけない。学校教育もですが、家庭教育を変えなければいけない。赤ん坊の時は情の中に住んでいますが、生まれて三ヶ月は『優しさと喜びの世界』に住んでいる。情の世界は一口にいって『優しさと喜びの世界』ですが、これがずっと続けば良い。青年ぐらいまで続けば良い。」(p30)
もちろん「優しさと喜びの世界」は理想であって現実ではない。現実の赤ちゃんも様々な周囲の状況から、過酷な状況に置かれることも少なくない。ましてそれが青年くらいまで続いたらどんな温室育ちか。
わざわざ優しさと喜びを奪うようなことはしてはいけない。これは当然のことだ。ただ、そうでないのが普通だという前提で今の教育は考えなくてはならない。むしろ人は赤ちゃんの頃からヘイトにさらされる、ということも考えなくてはいけない。
当然ながら、既に大人たちの生活がある所に赤ちゃんは突然投げ込まれるのだ。そして、それまでの大人たちの生活の一部を奪いながら自分の世界を獲得してゆく。それは生存の取引だ。
「優しさと喜びの世界」は無条件に与えられているのではない。それは大人との間の取引によって獲得される。大人が先にいて、そこを様々な大人の情で埋め尽くしている場所に、赤ちゃんは遅れてやって来る。そこで赤ちゃんは自分の情で塗り替える。それを助けるのが家庭教育だ。
母親だって人間だ、赤ちゃんの泣き声には悩まされるし、育児放棄したいという情に何度もかられながら赤ちゃんを育てて行く。父親だってそうだ。自分の仕事をしなければ赤ちゃんを食わせてゆけなくなる。そこで親も兄弟も親戚もその周囲の人も、絶えず悩みながら赤ちゃんを育てて行く。それは裸のままの情のぶつけ合いだ。それが生存の取引だ。
「みんながそうなる為には、一人一人が先ずわかってもらいたい。わかる為には自分の情の目で見ることですが、いちいち見て成程とわかったら、まだわかってない人にいう。そのやり方なら初めは極く少しの人ですが、直ぐ広がる。そうしてもらいたいと思う。」(p30)
「成程とわかったら」というのは各自がそれぞれの情の目でわかることであって、知識としてわかることではない。だから岡潔さんと見解が違ってたとしてもそれはかまわない。情の所で共感できるものがあるかどうかそれだけが大事だ。言っていることは違っててもいい。
細かい違いにこだわらないなら広がりやすくなる。一々小さな違いに目くじら立てて批判し合ってたのではいつまでたっても広がらない。
岡潔さんの文章だけでなく、今のこの私の文章もそのように受け取ってほしい。
「世界を救う道は日本人ほどやり易くはないだろうけど、結局は情が人であると教えることです。ヒューマニティーが道徳に一番近い。それだのにカントは『実践理性批判』、理性というようなものが道徳に近いという。見当違いです。」(p30~31)
カントの『実践理性批判』の無力については西洋人も戦後の実存主義の中で散々指摘してきたことだ。二十世紀の虐殺は「汝為すべし」の理性の声で感情を押し殺して行われた。その反省があったからだ。
ただ、西洋文明はなかなかロゴス中心主義から抜け出せない。今の人権思想も、人権が大切だということは間違ってないが、それを情ではなくロゴスによってやろうとしている所で問題だらけになり、世界中に多くの反人権派を生む元となっている。
ヒューマニティーは残念ながら人間を「ロゴスを持つもの」と規定する思想から逃れてないので、日本人が考える「情」とは程遠い。ただ、日本人が通常用いている「ヒューマニティー」だとか「ヒューマニズム」だとかいう言葉は、日本独自の意味が付け加わっているため、それが情であるかのように感じられるだけだろう。
むしろ情に近いものはエモーションの方ではないかと思う。エモいは正義だ。
また、情だけでは世界を救えないことも学ぶべきだろう。情は世界の様々な問題を考えるきっかけとなりエンジンにはなるが、ゴールは与えていない。
情に基づいて、情を離れないようにしながらも、とにかく考え抜かなくてはならない。そして何が問題なのかを理解しなくてはならない。そして、何よりも大事なのは憎しみに負けてはいけない。誰かを憎み、誰かを抹殺することで解決できるほど世界の闇は浅いものではない。でもよく考えれば結局単純な事実に行き着くはずだ。
つまり、地球は有限で無限の生命は不可能という単純な事実だ。そこから必然的に生存競争が生まれる。生きるために必死になる。情の多くはまず自分が生きるためにその多くを割くことになる。
でも、自分が先ず生きなくてはならないにせよ、沢山のこの世界で生存競争に敗れて死んでゆく人や悲嘆にくれる人の情の声が聞こえるなら、何十億もの人がその情に促されて思考を進めるなら、必ず悪い方向にはゆかない。
その情の声を抑圧する冷淡な指導者の声に従ってはいけない。
ごく一部の特定の可哀想な人の物語を作って、情を利用しようとする連中について行ってはいけない。
「赤ん坊は理性など働かしはしません。心の世界に住んでいる。むしろ、あんなものを働かさないから、こころの世界に住んでいる。真情の命じるままですね。それが道徳であり、それが幸福なんです。」(p31)
赤ん坊も生まれた時から必死に生きよう泣き叫んでいる。その声をいつまでも心の中に持ち続け、過酷なこの世界で生存の取引を繰り返し、自分の居場所を確保する。まずそれが前提条件になる。
そして、そのあとなお多くの情の声が聞こえるなら、それは必ず世界を良い方向に導く。
道徳は自己犠牲ではないし、自分の家族の犠牲の上に成り立つものでもない。宗教や主義主張は犠牲を命じるかもしれないが、聞く必要はない。
自分を犠牲にすることは、必ずその家族や友人をも犠牲にすることになる。なぜならあなたが犠牲になることを悲しむからだ。そんなところに幸福はない。
生活を切り詰めて家族の進学の夢も犠牲にして、いくら世界平和のための良かれと思って寄付をしても、そんなことでは周囲の人がみんな不幸になるだけだ。その不幸の連鎖の行き着くところはテロリズムだ。
そんなのは党の活動のために生活資金をつぎ込んでいる人だって同罪だ。やはり行き着くところはテロリズムだ。
自分の情を大切にするということは、自分の情を犠牲にしないということだ。そうでなければ世界は救えないのはもちろんのこと、自分自身すらも救えない。
自分の情に忠実に考え、行動してゆけば、それが道徳となり、そして自ずと幸福もついてくる。自分が幸せになれない道徳が人を幸せにできるはずがない。
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