2019年6月6日木曜日

 「応安新式」の続き。

 「雉 遅桜 荻の焼原(已上春也)
 神祭 榊取 杜若 牡丹(杜若・牡丹可為春題、雖両説依景物少、夏に入之) 毛を易る鷹 毛を易る鳥 鳥屋鷹(以上夏也)
 日晩 稲妻 鳩吹 楸 裏枯 冷敷 蔦 芭蕉 忍草 穂屋造 豆懸 初鳥狩 初鷹狩
 小鷹狩 鶉衣(非動物) 萱 枯野露 草枯花のこる(已上秋也) 沫雪 涙の時雨 庭火 木葉衣 落葉衣
 紅葉のちりて物をそむる(已上冬也)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.302)

 元来和歌には季語という概念はなかった。季語は連歌のルールに始まった。この時は季語だけでなく、山類、水辺、衣装、居所、植物、獣類、鳥類などの言葉があった。
 様々な句材の中の一つだったため、季語はそれほど多くはなかった。季語は江戸時代に入ると様々な俗語の季語が加わり、春夏秋冬にそれぞれ初、仲、晩の区別が成され、近代に入るとそれに歳旦が独立に加わり十三季になった。今日では数千もの季語がある。その裏で連歌・俳諧は衰退し、山類、水辺、衣装などの言葉は忘れ去られていった。
 「雉」をわざわざここで「已上春也」というのは、二条良基の時代にはまだ雉が春の季語として定着してなかったからだと思われる。
 雉を詠んだ和歌は古今集にも見られる。

 春の野のしげき草葉のつま恋ひに
     飛び立つ雉のほろろとぞ鳴く
                平貞文

 雉はケンケンと鳴くもので、ほろろというのは羽を打つ音だという。ここでも飛び立つときに「ほろろ」という音を立てている。
 この歌は「俳諧歌」に分類されていて「春」の部ではない。
 「連歌新式永禄十二年注」には、

 「雉子<きじといひても春也。但、狩場の雉子、可為冬歟>狩場のきぎすも、鳴としては春になるなり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.93)

とある。
 「遅桜」は開花期の遅い桜のことで春になる。夏の季語になる「残る桜」とは区別される。
 「荻の焼原」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「春、野火で焼いたあとの荻の原をいう。また、荻の初生の芽が黒いのにたとえたものともいう。《季・春》
 ※後撰(951‐953頃)春上・三「けふよりは荻のやけ原かきわけて若菜つみにと誰をさそはむ〈兼盛王〉」

とある。
 夏になるが「神祭 榊取」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「夏神を祭事は、清和の天とて、陰陽ととのひたる時分なれば、四月に祭といへり。
 又、賀茂のみあれと申は、御所生と書。明神生れ給へる日を申とかや。
  神祭宿の卯花白妙のみてぐらかとぞあやまたれける
  榊取卯月になれば神山のならの葉柏もとつ葉もなし」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.96)

とある。「神祭」の歌は紀貫之で「拾遺和歌集」の夏にある。「榊取」の歌は曽禰好忠で「後拾遺和歌集」の夏にある。
 「杜若 牡丹(杜若・牡丹可為春題、雖両説依景物少、夏に入之)」とあるのは、カキツバタとボタンは春の題になすべきものだが夏に景物が少ないので夏に編入するというものだ。
 杜若は在原業平の「から衣」の歌があまりにも有名だが、そのほかに杜若を詠んだ歌はというと意外に少ない。牡丹も和歌では「ふかみ草」というが、作例は少ない。

 夏木立庭の野すぢの石のうへに
     みちて色こきふかみ草かな
               慈円(拾玉集)

は夏に詠まれている。「千載集」にも、

   夏に入りて恋まさるといへる心をよめる
 人しれず思ふ心はふかみぐさ
     花咲きてこそ色に出でけれ
               賀茂重保

と夏に詠まれているから、牡丹が夏と定まったのはかなり古い。
 杜若を春とするのはやや無理がある感じがするが、牡丹は藤や躑躅の頃に咲くから春としてもそれほど違和感はない。
 「毛を易る鷹 毛を易る鳥 鳥屋鷹(以上夏也)」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の「鷹の塒入(とやいり)」の項に、

 「[和漢三才図会]四月、羽毛を易んとするとき葦緡(あしかは)を解去て、鳥屋(とや)の内に放つ。餌食意に任す。日を逐て脱落て、また新毛を生じて、七月中旬旧のごとし。」

とある。

0 件のコメント:

コメントを投稿