今日も暑い一日だった。
それでは「柳小折」の巻の続き。
脇。
柳小折片荷は涼し初真瓜
間引捨たる道中の稗 酒堂
(柳小折片荷は涼し初真瓜間引捨たる道中の稗)
ここには精鋭が集まったとでも言いたいのか。芭蕉さんも軽みへの転向で、ついていけない門人の離反が続いていた。あるいは大阪の之道のことも暗に含めているのか。おそらく、こういう言わなくてもいいことを言ってしまう所が之道との対立の要因でもあったのだろう。
そんな裏の意味をちくりと込めた感じだが、表向きは芭蕉さんへの長い道中への労いの句となっている。
稗は寒冷地や山岳地に強く、米が不作の時への備えとなる。新暦でいうと五月に種を蒔き、九月に収穫する。その間の間引きは欠かせない。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には夏之部五月の所に「穇蒔(ひえまく)」の項がある。
第三。
間引捨たる道中の稗
村雀里より岡に出ありきて 去来
(村雀里より岡に出ありきて間引捨たる道中の稗)
稗は山間部で作るため、間引きされた稗を求めて雀も山間の方へ遠征してゆく。「間引捨たる道中の稗に村雀の里より岡に出ありきて」の倒置となる。て止めのときは後ろ付けになることが多い。
四句目。
村雀里より岡に出ありきて
塀かけ渡す手前石がき 支考
(村雀里より岡に出ありきて塀かけ渡す手前石がき)
前句の村雀を背景として捨てて、村人が里より岡に出歩くと取り成す。石垣から落ちないように塀をめぐらす。
五句目。
塀かけ渡す手前石がき
月残る河水ふくむ舩の端 丈草
(月残る河水ふくむ舩の端塀かけ渡す手前石がき)
塀のある石垣を川べりの風景として、浸水した船が放置されているありがちなものを付ける。月の定座なので有明の頃とする。
六句目
月残る河水ふくむ舩の端
小鰯かれて砂に照り付 素牛
(月残る河水ふくむ舩の端小鰯かれて砂に照り付)
前句に小鰯が干からびて砂の上に点々としている情景を付ける。この頃はまだ「枯れ節」はない。
初裏、七句目。
小鰯かれて砂に照り付
上を着てそこらを誘ふ墓参 酒堂
(上を着てそこらを誘ふ墓参小鰯かれて砂に照り付)
墓参りというと今ではお彼岸だが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』によると、「七月朔日より十五日に至りて、各祖考の墳墓に詣る也。」とある。また、源順家集の
七月十五日ぼんもたせて山寺にまうづる所
けふのためをれる蓬の葉をひろみ
露おく山に我はきにけり
を引用して、「是盆の墓参り也」と書いている。昔は墓参りというとお盆のものだったようだ。
田舎の漁村のことだから一族みんな近所に住んでいる。お盆は暑い時期だが、本家の人が一応礼装のつもりで羽織だけ着て、一族に誘いかけて墓参りに行ったのだろう。
八句目。
上を着てそこらを誘ふ墓参
手桶を入るるお通のあと 芭蕉
(上を着てそこらを誘ふ墓参手桶を入るるお通のあと)
お盆の頃は参勤交代の季節でもあったので、行列が通るというので一応羽織だけ着て、通り過ぎたら手桶を持って墓参りに向う。
同じあるあるネタでも、大名行列の格式ばったスタイルをちくっと風刺するあたりがさすが芭蕉さんだ。上だけの庶民と違い、きちっと正装して通過する武士の汗だくの姿が浮かんでくる。
九句目。
手桶を入るるお通のあと
瘧にも食はいつものごとくにて 去来
(瘧にも食はいつものごとくにて手桶を入るるお通のあと)
「瘧(おこり)」はマラリアのことで、平安時代の人も江戸時代の人もこの病気には苦しめられた。日本でこの病気が克服されたのは戦後の高度成長の始まる頃だったという。
マラリアの周期的な熱で苦しんでいても、光源氏だって北山に療養に行ってそこで若紫の所に通ったり、周期的な発熱だから熱の引いているときは結構余裕だったのか。
そういうわけでマラリアだからといって食欲が衰えることもなく、食事を手桶に入れて運んでもらっている。
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