今日はとにかく暑い一日だった。九州のほうではまだ雨が降っているのに。
それでは「此さきは」の巻の続き。
五句目。
ぼんどをろより細工ほつほつ
温泉は山の中から涌て来る 正興
地獄の釜の蓋が開くイメージを山の中の温泉のイメージにしたか。特に付け筋というようなものもない。近代連句の連想ゲーム(シュール付け)に近い。
六句目
温泉は山の中から涌て来る
雨はらはらかさらさらとまた 惟然
これも温泉の湿気と雨の湿気という程度の繋がりか。
初裏に入る。七句目。
雨はらはらかさらさらとまた
延すまひとにかくかるふ杖で出ふ 惟然
雨が降ったからといって旅の日程を延ばすことはない。ただ軽い気持ちで杖を突いて出てゆく。
八句目
延すまひとにかくかるふ杖で出ふ
火をかきたてむ油へつたの 正興
油が減ったが油うりもこないので、杖をついてどこかに借りに行こうということか。
九句目
火をかきたてむ油へつたの
とろとろは臼のおとやら何ンじややら 正興
火から「とろとろ」と展開するが、火の様子ではなく臼を挽く音か何か、何だかわからないものにする。何だかわからないものを出せばどうにでも取れるから、確かに展開はしやすい。
十句目
とろとろは臼のおとやら何ンじややら
そもさとりとはかうさだめたり 惟然
これは禅問答というのか。稲妻の光や火打石の火花に悟りを開くなら、何だかわからない臼を挽くような音に悟りを開いてもいいじゃないかというところか。
十一句目
そもさとりとはかうさだめたり
見て通る松よ流よ月よ雲 惟然
急にまともな句になる。「見て通る松に雲の流れる月よ」の「よ」を係助詞的な倒置で前に持ってくるのだが、三箇所にそれを持ってくる。喩えていえば、「古池に蛙飛び込む水の音や」を「古池や蛙や飛び込むや水の音」とするようなもの。
頓悟はどんなものからも突然訪れるもので、臼の音でもいいし松に月の雲でもいい。
十二句目
見て通る松よ流よ月よ雲
さあ秋風が秋かぜがさあ 惟然
この種の同語反復は惟然流の常套手段で、内容的には月が雲に隠れるのを秋風のせいにするわけだが、秋風秋風と繰り返すことで他のものを省略できる。内容が少なければそれだけ次の句の展開はしやすい。それが惟然流の超軽みの良い所でもある。ようするに悩まない俳諧というところか。
悩みすぎて速度が遅くなった蕉風確立期の芭蕉の俳諧への反省から生まれた軽みだから、悩まずに付けられるという方向に極端に進めば、一句の内容をできる限り少なくして曖昧にするというのが答だったのだろう。
最小で、場面の限定されない内容であれば、その展開はそこからの連想ということになる。
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