2017年7月3日月曜日

 さて、吉田義雄さんの「『別座敷』『炭俵』連句抄」に載っていた「取あげて」の巻の続きを行ってみよう。

五句目
   沖細魚の塩のぎかぬ南気
 木綿物預ケテ帰ル昏の月        八桑
 (木綿物預ケテ帰ル昏の月沖細魚の塩のぎかぬ南気)

 吉田義雄さんが「前句の何か不充実な暮しの感じを受けているか。『木綿物預け』るのは何のため? またどこへ預けるのだろうか。質屋でもあろうか。」というので、それを考えてみよう。それが俳諧研究者の仕事だ。
 まず木綿物だが、これは木綿でできた衣類のことで間違いないだろう。そうなると、次に元禄時代の人にとって木綿がどういうものかを考える必要があるのでグーグルで検索をかけてみる。
 まず「和泉木綿」のサイトによると、永正七年(一五一〇)に三河の木綿が奈良の市場に現れ、その後畿内に木綿の栽培が広がり、庶民の衣料素材として麻に取って代わられたという。寛永五年(一六ニ七)に幕府が「農民の着物は布木綿たるべし」と下達すると、畠だけでなく田にも綿を栽培する者が急増したという。
 綿は蕉門の俳諧でもしばしば登場し、

 名月の花かと見えて綿畑   芭蕉

の句はよく知られている。
 一方裕福な商人などの間では絹が好まれ、贅沢禁止令の対象になったりもした。
 そうやって考えていくと、木綿物というのはそれほど裕福ではない庶民の日常の着物だったと思われる。
 前句との関係で言うと、秋刀魚を塩漬けに使用にもなかなか馴染んでくれないような湿った南風だから、木綿の着物も湿気で嫌な匂いになってそうだ。
 そこであとは想像だが、汗や塩水でぐしょぐしょになった木綿の着物を、仕事が終わる黄昏の頃には脱いで、そのまま預けて帰った、というそういうことではなかったか。洗っといてくれということか。
 月といっても単なる名月の風流ではなく、海辺で生活する人の生活感が伝わってくる。古典の風雅に頼らない蕉門の軽みの風流は、こういうものではなかったかと思う。

六句目
   木綿物預ケテ帰ル昏の月
 脇より爰はあかひ蔦の葉      子祐
 (木綿物預ケテ帰ル昏の月脇より爰はあかひ蔦の葉)

 「月の夕暮を帰る、道すがらの景。ただそれだけ。
 表六句は波瀾を嫌ったのかも知れないが、 平板そのもので、『紫陽草や』の巻の『かんかんと有明寒き霜柱』のような、一句でもその働きの利いているのと、全然比較にならない弱さである。」と吉田義雄さんは言う。
 月の黄昏に赤い蔦の葉は悪くはないと思うが、何が不満なのだろうか。赤い残光に照らされると蔦が赤いのか照らす光が赤いのかわからなくなる。

    出駕籠の相手誘ふ起々
 かんかんと有明寒き霜柱    八桑

 この句は「かんかん」という俳言の面白さはあるが、それを除けば平凡な明け方の情景なので、「紫陽花や」の巻解説には、「明け方の宿場の旅立ちの風景に、月の定座にふさわしく有明の月を出す。ただの有明だと月並だからか、冬のがちがちの霜柱を添える。」と以前に書いた。
 おそらく吉田さんが言いたいのは、これを

 かんかんと有明寒し霜柱

とでもすれば独立した発句になるのに対し、「脇より爰はあかひ蔦の葉」は独立性がないということを言っているのだろう。
 付け句を一句だけ独立させて鑑賞するのは、確かに江戸後期の注釈書にはそうした記述も見られるが、芭蕉の時代にそのような発想はなかった。江戸後期の人のいう「二句一章」が芭蕉の時代では当たり前だった。それだけまだ連歌に近かったというだけのことで、句の疵ではない。
 さて、初裏にに入る。

七句目
   脇より爰はあかひ蔦の葉
 仕舞には藻井(つし)へ上ケたる芋の茎     太水
 (仕舞には藻井へ上ケたる芋の茎脇より爰はあかひ蔦の葉)

 「藻井」はググるとまずコトバンクの「藻井(そうせい)」が出てくる。そこには、

 「中国古建築に用いられる装飾的な天井で、日本の格天井(ごうてんじよう)や折上小組(おりあげこぐみ)格天井の類よりいっそう複雑で装飾的なもの。」

とある。ただ、これはあくまで当て字だろう。「つし」は古語辞典だと、「屋根裏に簀子でしつらえた物置」とある。「厨子」という字を当てる場合もあり、コトバンクによると「厨子」は

 「(1) 収納具の一種。元来は厨房で食物を置く棚をさしたが、平安時代、寝殿造の室内に置く、器物、書画などを載せる2段の棚に扉をつけたものを二階厨子というようになった。」

とあり、これが農家の屋根裏の物置に拡大されて用いられたのであろう。
 「芋の茎」は「ずいき」のことで、ウィキペディアによると「サトイモやハスイモなどの葉柄。食用にされる。」とある。干して保存ができるので、大量に取れたら屋根裏に仕舞っておいたのであろう。
 ずいきの中には八つ頭や海老芋などの赤い茎の赤ずいきもあり、それだと屋内では赤ずいき、脇(屋外)には赤い蔦の葉と赤いものが並ぶことになる。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には秋之部八月の所に、

 「胡芋(ずいき) 芋の茎をいふ。[大和本草]唐の芋の茎は煮て食し、生酢をくはえて食す」

とある。この場合の「唐の芋」は海老芋のこと。
 
八句目
   仕舞には藻井へ上ケたる芋の茎
 一里こちから泊り見にやる     亀水
 (仕舞には藻井へ上ケたる芋の茎一里こちから泊り見にやる)

 吉田義男さんは「旅をするので、世話をする人がわざわざ一里こちらからを出してその宿の具合を調べさせるのである。その泊りが前句の様な鄙びた農家だったのである。」としているが、それだと何で屋根裏に芋茎(ずいき)を上げたのかよくわからない。
 おそらく、干している芋茎が所狭しと置かれている所へ急にお客さんが来るというので、あわてて屋根裏に押し込んだのだろう。

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