今日は箱根に行った。明星ヶ岳に登り、強羅でクラフトビールを飲んだ。楽しい一日だった。
それでは『俳諧問答』の続き。
「又曰、凡惟然坊が俳諧たる、かれ迷ふ処おほし。
もと惟然坊蕉門に入事久し。然ども先師に泥近する事まれ也。是ゆへに去ル戌の年のころ迄、坊が俳諧、世人此をとらず。
然ども先師遷化の前、京師・湖南・伊賀難波等に随身して遊吟す。先師かれが性素にして深く風雅ニ心ざし、能貧賤にたえたる事をあハれミ、俳諧に道引給ふ事切也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.66)
芭蕉と惟然の出会いは、『風羅念仏にさすらう』(沢木美子、一九九九、翰林書房)によれば、貞享五年(一六八八)六月だという。
『笈の小文』の旅を終えて京に滞在し、去来の落柿舎を尋ねたりした後、芭蕉は岐阜に行き、「十八楼ノ記」などを記す。
ふたたび大津に行き六月八日に岐阜に戻る。そして六月十九日の岐阜でも十五吟五十韻興行に、当時素牛を名乗っていた惟然が名を連ねることになる。
『笈日記』にはこの頃詠まれたと思われる、
茄子絵
見せばやな茄子をちぎる軒の畑 惟然
その葉をかさねおらむ夕顔 芭蕉
是は惟然みのに有し時の事なるべし
の付け合いが記されている。
これは『笈の小文』の、
よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠 芭蕉
よし野にてわれも見せうぞ檜の木笠 万菊丸
に較べると、なんとも地味なやりとりだ。
その後、芭蕉と惟然との関係がどうなっていたかはよくわからない。
「去ル戌の年のころ迄、坊が俳諧、世人此をとらず。」と去来が言うように、元禄七年甲戌の年までの惟然の俳諧はほとんど知られてないし、未だによくわからない。
ただ、元禄二年、『奥の細道』の旅で芭蕉が大垣に来た時、芭蕉は、
関の住、素牛何がし、大垣の旅店
を訪はれ侍りしに、かの「藤代御
坂」と言ひけん花は宗祇の昔に匂
ひて
藤の実は俳諧にせん花の跡 芭蕉
の句を詠んでいる。
そして元禄四年、京に登った惟然は再び芭蕉に接近することになる。
七月中旬ごろに興行された、
蠅ならぶはや初秋の日数かな 去来
を発句とする興行に、路通、丈草とともに参加している。「牛部屋に」の巻とほぼ同じ頃だ。この五吟も、去来ー芭蕉ー路通ー丈草ー惟然の順番で固定されている。
ただ、ここでも惟然は継続的に芭蕉について回ることはしなかったようだ。
次に芭蕉の俳諧興行に惟然が登場するのは、元禄七年、芭蕉が再び京にやってきた時の「柳小折」の巻だった。このあと、惟然は『藤の実』を編纂し、芭蕉の没する時まで長く行動を共にすることになる。
この頃は去来と一緒にいることも多く、「先師かれが性素にして深く風雅ニ心ざし、能貧賤にたえたる事をあハれミ、俳諧に道引給ふ事切也。」と芭蕉の強いプッシュがあったことを記している。
芭蕉は惟然の一見平凡でそっけない句に、何か新しいものを見出していたのかもしれない。支考とともにその将来に大きな期待を寄せていたと思われる。
「故にかれが口質の得たる処につゐて、先此をすすむ。
一ツの好句有時ハ、坊ハ作者也、二三子の評あたらず、何ぞ人々の尻まひして有らんやと、感賞尤甚し。
坊も又、自心気すすんで俳諧日比に十倍す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.66~67)
世に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺があるが、去来がさんざん三十棒で叩かれたのに対し、惟然は褒めて伸ばす作戦に出たようだ。これでは去来としては面白くなかろう。
「又先師の俳談に、或ハ俳諧ハ吟呻の間のたのしみ也、此を紙に写時ハ反古に同じ。
或ハ当時の俳諧ハ工夫を日比に積んで、句にのぞミてただ気先を以て出すべし。
或ハ俳諧ハ無分別なるに高みあり。
如此の語、皆故ありての雑談なり。坊迷ひを此にとるか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67)
『去来抄』「修行教」に、「今の俳諧は、日比ひごろに工夫を附つきて、席に臨のぞみては気先きさきを以もつて吐はくべし。」とあり、これは俳席での心得で、即興が大事な興行の席では、日頃練習のときに悩むだけ悩んで工夫し、本番ではそれを忘れて無心になれ、ということで、今日のスポーツにも通じるものだと思う。
「無分別なるに高みあり」というのは、高度な技術は『荘子』の「包丁解牛」のように、それを意識せずとも使いこなせるようにならなくてはいけないという意味だろう。
「吟呻の間のたのしみ」も興行を盛り上げることが大事で、書物にするために俳諧をするのではないという基本だ。
去来は興行の時に悩みすぎる傾向にあったのだろう。だからリラックスして本番に臨むことを説いたのだが、多分惟然は本番では最初からそんなに考えない、自然体で臨むタイプだったのだろう。
自分とは違う惟然の才能を、去来は師の言葉を間違って受け止めた「迷い」と思っていたようだ。
芭蕉が惟然の句に何を見出したのかはよくわからない。ただ、芭蕉は出典をはずしたりして古典の影響から抜け出そうとしていたから、惟然の自然体の句に何かそれを切り開く可能性を感じていたのかもしれない。
ひょっとしたら芭蕉がもう少し長生きしていたら、芭蕉は子規の時代の写生を先取りしたかもしれない。ただそれだと、ただ実際にそうだったからというだけの理由ですべての趣向が等価になってしまう危険もあり、近代の写生句が陥ったような、人々の記憶に留まることもなく膨大な量の句が作られては消えて行く状態が生じてしまう。(近代にまでならなくても、幕末や明治初期には既にそのような凡句が量産されていた。)芭蕉ならその問題をどう解決するのか、残念ながらそれを見ることはできなかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿