李舜臣将軍の旗というのは、おそらくほとんどの日本人は初めて見るものだと思う。
今の日本では朝鮮出兵と呼ばれているが、元は文禄・慶長の役と呼ばれていた。文禄の役は壬辰倭乱、慶長の役は丁酉倭乱のことをいう。
このとき日本は、戦国時代の同じ民族内での権力争いにすぎない国内の合戦の感覚で攻め込んで、先陣争いなどをやって補給を考えずに攻め込みすぎてしまったから、結局は補給を立たれて飢餓に陥ることになった。
それに加えて、李舜臣将軍の亀甲船の活躍で制海権も奪われ、敗北に終った。
この補給を無視した無理な行軍という過ちは、1937年の南京侵攻でも繰り返された。歴史に学ぼうとしなかった過ちだ。
この二つの日本の侵略戦争は、ともに「一つの世界」という幻想に囚われた世界征服の野望によるものだという点で共通している。
織田信長は『史記』や『三国志』に憧れ、自分もまた中華皇帝になることを夢見た。そのときは天皇を自分の下に置くつもりだったようで、明智光秀はそれに反発して天皇を守ったという説もある。秀吉の朝鮮出兵はそれを引き継いだものだったが、秀吉は自ら天皇の上に立つなどということは考えなかった。
近代の侵略戦争も、欧米列強が世界を植民地化してゆく動きを見て、単に日本を西洋の植民地化から守るという範囲を超えて、むしろそこに漢籍にあるような中華皇帝をめぐる戦いを投影して、自らその地球レベルの天下統一の戦いに参戦しようとした。
(古代の三韓征伐はまったく違った動機で、おそらく「日本人」というものがまだ確立されてなくて日本列島と朝鮮半島の諸民族の抗争の最終的なものだったのだと思う。)
それはそうと、壬辰倭乱というと、sad legendの「Imjin War」は名曲だと思う。
さて『俳諧問答』の続き。
「又ノ十五、又曰、和歌もいづれの風を読んとおもふ事あるべし。後鳥羽院の勅言も、いまの世に生れてうたをいにしへによむものハ西行也と、つたえ聞たり。
又古今の序ニ、小町ハそとをり姫も流なりと。此等ハまつたく風をこひて読給ふなり。
西行・小町といふとも、まなバずしてかくのごとくハあらじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55)
「後鳥羽院の勅言」に関しては、岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎注によると、後鳥羽院ではなく順徳天皇の『八雲御抄』に、
「定家の云『歌のみちはあとなきごとくなりしを、西行と申ものがとくよみなして、今にその風ある也。』と云り。西行は誠に此道の権者なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55)
とあるという。
小野小町の「古今集仮名序」の評には、
「をののこまちは、いにしへのそとほりひめの流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめる所あるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。」
とある。
ただ、この二つの例は、複数の体を分けて詠むということではない。
むしろ過去の作風を継承しているというだけで、元の風を模倣しているということではない。
もちろん、過去の作品を研究してその影響を受けた可能性もあるが、たいていは評者が単に似ているなと感じたことを、何某の歌に近いというような感覚のものだと思う。
風としては、西行はやはり新古今調だし、小野小町も古今調だ。過去の風を受け継いではいても、その時代の風で詠んでいる。少なくとも江戸後期の国学者やアララギ派の歌人が復古万葉調で詠むのとは分けが違う。
「もし天性の風流、学ばずして此に至り給ふや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55)
多分、学ばずして此に至ったのであろう。後から評者の方がこれは何某の流だと勝手に呼んでいるだけだと思う。天才というのはそういうもので、努力の人の去来には理解できないかもしれないが。
「体ハ、大形いづれの体よまんと、はじめよりおもふ物に非ず。歌合・賀・初会等のうたハ、おのおの正風体をよまんと、はじめよりこころざし給ふと伝え聞たり。
六百番に顕昭ハ、ただ一ふしよまんとし給ふ故に、負多しといへり。又はれのうたよまんにハ、正風体をよむべしといへるも、うたいぜんにおもふなるべし。尤此ハ体の事にして、風にあづからず。阿兄の難ハ、二ッを分ざるの難也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55~56)
去来は風と体に勝手な解釈を加えているだけで、肝心な部分に答えてはいない。
つまり不易体の句、流行体の句と分けて詠むことが正当かどうかという問題だ。
芭蕉自身が、
名月に麓の霧や田のくもり 芭蕉
名月の花かと見えて棉畠 同
の二句を詠み、『続猿蓑』に、
「ことしは伊賀の山中にして、名月の夜この二句をなし出して、いづれか是、いづれか非ならんと侍しに、此間わかつべからず。月をまつ高根の雲ははれにけりこゝろあるべき初時雨かなと、圓位ほうしのたどりされし麓は、霧横り水ながれて、平田(しょうしょう)と曇りたるは、老杜が唯雲水のみなり、といへるにもかなへるなるべし。
その次の棉ばたけは、言葉麁にして心はなやかなり。いはヾ今のこのむ所の一筋に便あらん。月のかつらのみやはなるひかりを花とちらす斗に、とおもひやりたれば、花に清香あり月に陰ありて、是も詩哥の間をもれず。しからば前は寂寞をむねとし、後は風興をもつぱらにす、吾こゝろ何ぞ是非をはかる事をなさむ。たヾ後の人なをあるべし。」
という支考評を添えることを望んだか、OKしたとすれば、芭蕉自身、不易と流行を分けて詠んだことになる。
あるいは『猿蓑』の撰のときに、
病鴈のよさむに落て旅ね哉かな 芭蕉
あまのやハ小海老にまじるいとど哉 同
の二句を提示したときにも、不易と流行の二つの体を意識していた可能性はある。
そうなると、不易と流行を分けて詠むことが元々そんなに悪いことだったのか、という許六の難そのものが当たってないのではないかということにもなる。
去来は先師のこういう例を引いて、不易と流行を分けて詠むのの何が悪いという方向で反論した方が良かったのではないかと思う。
去来の方が許六の難に押されて一歩引いてしまったから、苦しい言い訳になってしまったのではないかと思う。
「又々ノ十五、去来又曰、不易は和歌の正風体と大概似たるべし。然ども和歌の事にうとし。強て此を謂がたし。正風体ハひとり風体の二字を用ゆる事、故あるべし。正風体の和歌ハ、古今にわたりて、又おのれ一風ある物か。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.56)
「正風体」という言葉が唐突に登場しているが、当時の和歌ではこの言葉を用いていたのか、正風体は風であるとともに体であるのだから、「阿兄の難ハ、二ッを分ざるの難也。」とあるのだから矛盾してしまう。
コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 正しい風体。特に歌学で、伝統的な作風による品格の高い歌体。しょうふうたい。
2 近世の俳諧で、正しい俳風・風体。主として蕉風についていう。しょうふうたい。」
とあるが、むしろ「正風体」は芭蕉の不易流行説に基づいた不易であるが故に風を超越した体というような意味で定着していった可能性もある。「正風」は「蕉風」に掛けて用いられる。
許六もこの後正徳二年に『正風彦根体』を編纂し公刊している。
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