多少暑いけど中秋の終りの穏やかな一日。今日は「牛部屋に」の巻は一休みして、教育勅語の解釈の可能性について語っちゃったりしようかな。
「教育勅語」の復活のことはこれまでもしばしば話題になった。ただ、教育勅語の内容について、実際にはそれほど議論されているわけではない。議論自体をタブーとする風潮があったからだ。
右翼からすれば天皇の言葉を議論するのは畏れ多いし、左翼からすれば議論すること自体が軍国主義の復活につながるというわけだ。
その教育勅語というのは、そんなに長い文章ではない。ウィキペディアから引用しよう。
教育ニ関スル勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器󠄁ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又󠄂以テ爾祖󠄁先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
これを不敬を承知で現代語にしてみた。
「朕は考えたんだ。神武天皇やその後継者によってこの日本という国が始まってからというもの、広い範囲にわたって徳を確立することに熱心だったんだなって。
我が臣下である日本国民は、忠と孝を大事にして有史以来憶兆の人々が心を一つにして、代々美風を作り上げてきた。これが我が国体の美しい花々であり、教育もまさにここに基づいて行われなければならない。
あなたがた臣下である民は親孝行をし、兄弟仲良くし、夫婦は相争うことなく、仲間を信じ、身を慎み、広く人を愛し、学問に励み、手に職を身につけることで己の能力を啓発し、徳を身に付け、すすんで世のため人のためになることを広め、政治に参加し、憲法を尊重し、法律を遵守し、ひとたび差し迫った事態が生じれば忠義に基づき勇気を奮い起こし、身を公に捧げ、天地開闢以来永遠に変わることない天の営みが続くよう左右から手助けをしなさい。
そうすれば朕の良く忠誠を誓う臣民だけでなく、これによって先祖から受け継がれた美風をも称えることにもなるんだ。
この道はまさに我らが神武天皇やその後継者によって残された遺訓であるとともに、子孫である臣民も一緒になって守っていかなければいけないことで、昔も今も間違いのないことだ。これを日本国内のみならず海外にも広め、捻じ曲げることがあってはいけない。
朕もあなたがた臣民と一緒に両の手で大切に胸に抱えて、みんなでこの徳を一つにすることを心から願ってるよ。
明治二十三年十月三十日
ここに名前記し捺印する。」
先ず問題になるのが「臣民」の概念だが、これは文字通りの意味では天皇家の家臣であることを意味する。ただ、天皇が直接国家を統治した時代ははるかに昔のことで、鎌倉の武家政権の誕生以来、建武の新政の僅かな期間を除けば形骸化し、ただ武家政権に官位を与えることで支配の正当性を保証するだけのものになっていた。
ここでいう「臣民」の概念は江戸後期の国学者たちによって形成された一君万民思想によるもので、天皇家は形式的な日本の支配者であり、政治は万民の公議によって行うという、民主主義の先駆をなす思想だった。
このことは慶応三年の「王政復古の大号令」の「諸事 神武創業之始ニ原キ、縉紳武弁堂上地下之無別、至當之公議竭シ、天下ト休戚ヲ同ク可被遊」に現れている。
臣民であるということは、実力で王となる道を放棄することなので、独裁政治の禁止の側面を持つのだが、戦前の軍部は天皇を拘束し傀儡とすることで抜け道とした。
今の時代にあえて「臣民」の概念を生かすとすれば、権利の平等と独裁の禁止以外にない。
もちろんプロレタリア独裁は基本的に日本の国体にはそぐわない。そこが左翼の反発する一つの理由と思われる。
次に「夫婦相和」だが、ここには異性夫婦か同性夫婦かが明示されていないので、同性婚が認められたとしても矛盾はない。ただ、「國憲ヲ重ジ」ともあるので、憲法24条の改正は必要と思われる。
「國憲ヲ重ジ」は憲法改正を否定するものではない。憲法が不磨の大典だというのは、「大日本帝国憲法発布ノ勅語」の「現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」に基づくものだが、その大日本帝国憲法第73条に「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」というに憲法改正の規定がある以上、改憲は「國憲ヲ重ジ」に矛盾しない。
左翼が一番問題にするのはおそらく、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の部分であろう。
震災などの天災はよほど日本沈没のような大規模な天変地異でない限り、国家の危急存亡とまではいかないから、基本的には「緩急」は戦争と解釈していい。もっとも、複数の原発が次々とメルトダウンするような事態が生じれば「緩急」と言えるかもしれない。
ただ、戦後は戦争そのものが国際的に「平和に対する罪」となったため、日本が自ら侵略戦争を起こすことはあってはならないし、そこに「緩急」の大義はない。
緩急の事態があるとすれば、日本が他国から侵略されるか、内戦が起こるかのどちらかであろう。
おそらく日本が他国に侵略され、支配されれば、右翼左翼関係なくレジスタンス運動が起こるのではないかと思う。左翼が恐れるのは革命が内戦の様相になった時のことであろう。
「天壌無窮ノ皇運」は天地の窮まりなき運行のことで、太陽が東から上り西へと沈み四季が循環するようなことをいう。何らかの教義を意味するものではない。というのも、明治以降、国家神道の統一の教義を作ろうと試みられたことはあったが、結局実現しなかったからだ。
我国の神の道はあくまで神ながら言挙げせぬもので、天地はただ語らぬ経を読むものに他ならない。強いて言えばそれ以外の思想宗教は私的なもので、臣民として従うべき教義ではないということだ。これも社会主義とは矛盾する。
むしろこの一文は、たとえ国家の危急存亡の事態でも、特定の思想や宗教に偏ることなく、いかなる独裁的な権力をも認めず、ただ己の誠の心を持って対処すべしという意味に解釈できると思う。
「億兆心ヲ一ニシテ」「其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ」の表現も臣民の心を一つにするという意味で、世界を一つにするという意味はない。地球規模での天下統一事業に参加するという意味にしてはならない。
「一つの世界」を放棄し民族の多様性を認め、侵略戦争の大義はもはや存在しないというその点にさえ注意を払って解釈するなら、教育勅語にはまだ十分可能性はある。
いかなる私的な思想や宗教にも偏らず、あくまで人間としての自然の道を貫く日本の伝統は十分世界に誇れるものであり、平和的な手段であるかぎり世界に広めてゆく価値がある。たとえば漫画やアニメなどで日本の文化を伝えるような、広義の風流の道に基づくものなら、それは誇るべきものであろう。
教義なき天地の道を象徴するのが天皇であり、皇道は天地自然の道に等しい。あくまでその象徴の下に日本人は天地の道の臣下として平等であり、政治はあくまで民主的な公議を以って行い、いかなる独裁をも認めないというその美風を非暴力を以って世界に広めるという解釈なら、今日でも教育勅語に意味を持たせることは可能だ。ただもちろん、新しい教育理念を作るならそれでもいい。
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