2018年10月18日木曜日

 ようやく夜晴れて、半月が見えた。明日はまた雨か。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 おそらく想像するに、元禄二年の冬、『奥の細道』の旅を終えた芭蕉が京都を訪れたとき、不易流行の話が出た時、去来は不易風と流行風の二つの風を新風としてこれから始めると理解したのではなかったかと思う。それは次韻風、虚栗風、蕉風確立期の風があったようなもので、その延長と考えていたのではないかと思う。
 それはさらに あるいは翌元禄三年、『猿蓑』の撰のときに、

 病鴈のよさむに落て旅ね哉かな    芭蕉
 あまのやハ小海老にまじるいとど哉  同

の二句を示され、どちらか一句を選べと言われた時に、こういうふうに不易風と流行風を分けて詠むんだと確信したのではなかったかと思う。
 そこで「病鴈の」はいわゆる正風であり、「あまのやハ」は一時流行の風というふうに認識した。
 だから、許六に不易風と流行風を分けて詠むことを和歌十体に喩えて難じられたとき、不易と流行は体ではなく風だと反論することになった。
 もちろん不易と流行を分けて詠むこと自体は完全には否定し切れなかった。
 芭蕉が不易流行を説く前にも秀逸はあったという許六のアイロニーに対しても、去来は貞門には貞門の秀逸が、談林には談林の秀逸があった、というふうに理解していた。
 そして許六が不易流行を意識せずに句を作り、それが秀逸なら、それは許六さんの新風ではないか、と切り返すことになる。
 ただ、貞門風も談林風も風も、まだただ不易と流行の名前がなかっただけで後から見ればそれに類するものがあった。
 これを以ってして芭蕉が不易流行を説く以前にも不易と流行はあり、この二つの風は俳諧が始まった時からあったとするが、これだと不易と流行は芭蕉の新風とは言えなくなり、矛盾が生じてしまう。
 結局、後の『去来抄』の頃には不易と流行は「体」だということに修正することになる。芭蕉は普遍的に存在していた不易と流行の体に名前を与えた、ということになる。
 さて、そう考えると、次の文章はわかりやすくなる。

 「来書曰、曾(かつ)て流行・不易を貴しとせず。
 十八、去来曰、此論阿兄の見のごとくんバ勿論也。
 然ども阿兄静に此を考へたまへ。
 阿兄の今日先師に学び給ふ処者、古今の風を分ず此を学びたまふや。又先師の今日の風を学び給ふや。
 もし今日の風を学給ハバ、此流行を貴び給ふにあらずして何んぞや。
 昔日ハ先師の昔日の流行を学び貴ミ、今日ハ今日の流行を学び貴む。其流行に随ざるは先師の風におくる。おくるる者ハ其むねをゑず。故に流行を貴む。
 阿兄今此を貴まずといへども、心裏おぼえずして此を貴む人なるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.59~60)

 不易風と流行風という二つの風が今日の風であるなら、今日の風を貴んで句を詠む以上、二つの風を貴んでいることになる。理の当然というわけだ。

 「来書曰、よき句をするを以て、上手とも名人とも申まじきや。
 十九、去来曰、阿兄の言しかり。宗鑑・守武このかた宗因にいたるまで、皆一時のよき句有ゆへ、時の人呼て名人とす。その名人の称、今にうせず。
 先師も此人々を貴み給ふ。此レよき句する人を名人といふ処也。
 しかれども此人々の風、先師今日とり給ハず。その句ハ一時によしといへども、風変じて古風すたる時ハ、共にすたる。このゆへに一時の流行にをしうつらん事をねがふのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.60)

 不易風と流行風がともに一時流行の風ならば、不易風といえどもやがては廃れてゆくことになる。それでは不易じゃないじゃないか、ということになる。また不易風を起す前の秀逸は不易ではなかったということになる。
 「不易」を風と呼ぶ限り、この矛盾は付いて回る。「不易」は時代を超えた普遍的な価値であり、一時的な「風」を越えた根源的なものでなくてはならない。去来はその認識に至らなかった。基と本意本情の形式的な不易を越えられなかった。

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