今日も夕方から雨になった。いまひとつすっきりしない日が続く。
明日は十三夜だが、晴れるかな。
それでは『俳諧問答』の続きをちょこっと。
「来書曰、アア諸門弟の中に秀逸の句なき事を悲しぶのミ。
廿、去来曰、共に悲しむのミ。又秀逸有といふとも、きく人なからん事を悲しむのみ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.60)
秀逸がないのを悲しむのはわかる。そのあとのは一体何が言いたいのだろうか。
芭蕉亡き後、蕉門の俳諧に対する世間の関心が急速に薄れているということか。しかし、それは秀逸がなければ当然だろう。
秀逸があるのに世間が見向きもしないとすれば、蕉門内部での評価と世間の評価の間にギャップがあるということで、これだと蕉門の俳諧が世間と隔絶された閉鎖的なカルト的なものになっているということだろう。
しかし、芭蕉なき後の秀逸な句があるとすれば、一体どれのことをいうのだろうか。まさか「応々と」や「紅粉の小袖」ではないだろうね。
近代の場合だと文学に限らず芸術一般において、西洋的な価値観で制作する人と日本の伝統的な社会に属する一般大衆の価値観との間に相変わらず大きな乖離がある。
カンヌのパルムドールを取った是枝監督の『万引き家族』にしても、西洋で評価されるものが必ずしも日本では当たらないというのは、今に始まったことではない。スタジオジブリの『レッドタートル ある島の物語』もそうだった。
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