たとえば登山だって遭難すればたくさんの人に迷惑をかけるし、登山計画に無理があったのではないかとか、装備が不十分だったのではないかと、素人の口からでも非難の言葉が出てくるものだ。
ジャーナリストだってスクープを取って帰ってきたなら英雄だが、拉致されて人に迷惑をかけただけなら何を言われてもしょうがないと思う。
まあ、命があってよかったなと、それでいいんではないかと思う。
それに本当にジャーナリスト魂があるなら、そんな非難にもめげずにいつかリベンジを果たしてくれると思うよ。
満塁のチャンスで打てなかったバッターや、決定的なチャンスでシュートをしなかったストライカーと同じだと思う。非難するファンに罪は無い。
では『俳諧問答』の続き。
「来書曰、北狄・西戎のゑびす、時を得て吹を窺ミ、次第ニミだりが集をつくらんこと、尤悲しぶに堪たり。高弟此誹りを防ぎ給へる手だてありや。
廿三、去来曰、先にいふがごとく、予なんぞ世人のあざけりをうけん。
又あざけりをうけずといふとも、道のため師のため、此をなげかざるにハあらず。然ども、此をとどめんに術なかるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.64)
これも前の文と同様、他流のすることは自分の責任ではないし、止めることはできない。だから嘲りを受けるいわれはない。
「来書曰、惟然坊といふ者、一派の俳諧を広むるにハ益ありといへども、返て衆盲を引の罪のがれがたからん。あだ口をのみ吐出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入て、世上の人を迷はす大賊なり。
廿四、去来曰、雅兄惟然坊が評、符節を合セたるがごとし。その内、一生真の俳諧一句なしといはんハ、過たりとせんか。又大賊といひがたからんか。賊の字たる、阿兄の憤りの甚しきならん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.64~65)
この頃の惟然は確かにまだそれほど目だった存在ではなかったし、今日知られているのは皆元禄十五年以降の超軽みの句がほとんどだ。
まだ迷いが多く、自分の作風を確立できていない並の作者だったとは思うが、なぜそれほどまで嫌われるかと思うと、多分路通と同様、乞食坊主だったからだろう。
去来が言うように、確かに許六のそれは言いすぎだ。
元禄七年の『藤の実』の惟然の発句は、確かに目立たないがそんなに悪い句とは思えない。
水仙や朝寝をしたる乞食小屋 惟然
蓴菜や一鎌入るる浪の隙 同
張残す窓に鳴入るいとど哉 同
枯葦や朝日に氷る鮠の顔 同
今で言う写生に近い見たものをそのまま詠んだ感じだが、確かに何を言いたいのか何を伝えたいのかよくわからないところがある。
芭蕉の、
海士の屋は小海老にまじるいとど哉 芭蕉
句は、そのまま詠んだようでもあるあるネタになっている。だが、張り残す窓のいとどはそれほど「ある」と言えるネタだったか。
俳諧らしい笑いの要素を欠いているという点では、「真の俳諧一句なし」だったのかもしれない。
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