今日も十六夜の月が丸い。
安田純平さんがようやく開放されたと言うことで、それもまた明るいニュースだ。
まあ冒険家ではないから帰ってきただけで英雄というわけには行かないだろうけど、多分書きたいことは山ほどあると思うし、ジャーナリストとしての真価が問われるのはこれからなんだろうな。
推測だが「私の名前はウマルです。韓国人です。」というのは、日本政府でなくても人質解放交渉に応じる、という合図だったのではないか。多分何らかの理由があってカタールが名乗り出たのだろう。これで日本はカタールに足を向けて寝れなくなったな。
それでは『俳諧問答』の続き。
「尤憎べきの甚敷もの也。かれが心操をかへり見るに、翁います時ハ、先師をうりて己が浮世の便とし、先師没し給ひてハ、又先師をうりて、初心の輩を、今ハ先師にまされとあざむき道びかんが為なるべし。
其難ずる処、誠に笑べきのミ。我是がために、その辟耳を切て、邪口をさかんと欲す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)
まあ、風評で勝手な邪推をしては随分物騒なことも言っているが、後のフォローも忘れずということで、こう続く。
「然れども翁います時、或翁の句をそしるもの有。我此に争ハんとす。
先師曰、必あらそふ事なかれ。我自我が句を以て、いまだつくさずとおもふものおほし。却て五・三句を揚てそしらんハ、我名人に似たりと、大笑し給ふ。
此事をおもへバ、又憤りののしらんに不及。かれも此も共に先師をうるもの也。阿兄此をいとひ給ふ事なかれ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62~63)
まあ、同門で批評を戦わしながら切磋琢磨しというのは必要なことなので、先師の句とて例外とすべきではない。
芸術にたった一つの答なんてものはない。多様であってこそ芸術だ。皆己の信じる道を行くのみというところか。
芸術が一体何の役に立つのかというと、結局は石頭にならないために必要なのだと思う。
日々変化する様々な状況に柔軟に対処する能力を養うには、それだけ普段から頭の中にいろいろなイマジネーションをストックしておく必要がある。
おそらくこうしたイマジネーションのストックを作ることに快楽報酬が得られるよう、人類は進化してきたのだろう。
「俳諧は新味をもって命とす」というのは、人々は常に新しいイマジネーションに貪欲だからだ。既にストックしているイマジネーションは二つも三つも要らない。今まで誰も思いつかなかったものだからこそ価値がある。
結局芸術は理屈ではなく、既存の理屈を打ち破るブレイクスルーでなければならないのである。「理屈は理屈にして文学に非ず」と正岡子規も言っている。
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