『俳諧問答』の続き。
「翁在世のとき、予終に流行・不易を分て案じたる事なし。句出て師に呈ス。よしハよし、あしきハあしきときはまる。よしと申さるる句、曾て二ッの品を心にかけずといへるとも、不易・流行おのづからあらハるるなり。滅後の今日に至て猶しか也。
十七、去来曰、此弁湖南の人の二ッを分て句案する答にあり。重て此を弁ぜず。又その先師のよしと申さる句、不易・流行自備るハ勿論なり。もし二ッの内、一ッあらずんバ、先師よしとの給はじ。
又二ッの風にもるると云共、阿兄古今未発の風を詠じ出し給ひて、しかもその風よろしくバ、作者の手柄なるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.58)
これは十四と重複すると言う。
不易も流行も、出来上がった句を評する時には便利だが、不易と流行を意識すれば好句ができるというものではない。その失敗は去来のいくつかの句を見ればいいだろう。ただ、それは不易の考え方が浅かったせいで、二つに分ける考え方そのものが悪いということではない。
不易が備わらないというのは、その人だけの特殊な句ということか。いわば共感が得られない句ということだろう。近代俳句にはこういうのが多い。文学はあくまで個の表現だという考えから、却って多くの人の共感する句を通俗的な句として嫌う。個の特殊性が表現されているのを良しとする。
流行のない句というのは、要するに古臭い句ということか。ただ、復古調が流行することもあるし、今でもレトロ・ファッションというのがあるから、古びた句が悪いということでもない。ただ、それは古いものに新しい解釈が加わった時で、単なる古い物の焼き直しなら見るべきものもない。
不易も流行もどちらもない句となると、なかなか想像しがたい。
『去来抄』では不易も流行も「体」として認識されているが、この頃の去来は「風」として認識していた。これは多分、過去の流行の風を不易、今の流行の風を流行というふうに、時系列で「風」として捉えていたのではないかと思う。
この解釈なら、不易でも流行でもない句は過去にも現在にもない句ということになるから、それは「未発の風」つまり新風であるため、「作者の手柄」となる。
ただ、これだと芭蕉が次々と生み出した新風は、不易でも流行でもなかったということになってしまう。要するに不易も流行も「風」だというところに無理がある。
「古今未発の風にもあらず、今日の流行風又不易の風にもあらずバ、必して過去の風なり。過去の風ハ、先師の今日の風に非ず。先師の風にあらざるものハ、阿兄此をねがひ給ハじ。
むべなる哉。先師のよしと申さるる句、自二ッのうち一風有事。其あしと申さるるハ、定て過去の風もあらん、拙き句もあらん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.58~59)
こうなってくるとますます何を言っているのかわからなくなる。
ここでいう「過去の風」はおそらく貞門や談林の風という意味で、蕉風には不易風と流行風があって、その中でも蕉風の古を模した風を不易風と呼び、蕉風の流行の風と区別しているのか。
許六が言うのは、句を詠む時に一々不易の句にしようかとか流行の句にしようかとか意識する必要はなく、良い句には句にはおのずと不易の側面・流行の側面が備わる、ということで、不易も流行もない句なんてのは最初から問題にしていない。
不易も流行も、別に先師の専売特許ではないし、貞門にも談林にも不易はあるし、流行もかつてあった。大阪談林はこの時期でもまだ流行していた。
古臭い句だから不易も流行もないということではない。それは昔流行った句にすぎない。ここにも去来がいかに「不易」を狭く解釈しているかがわかる。
去来は蕉風に不易風と流行風があると考えていて、蕉風にあらずんば不易も流行もないというふうに考えていたのではないか。
そして、不易風でも流行風でもなくでも、貞門や談林にはそれぞれの風があり秀逸があり、許六さんがこれから未発の新風を起すなら、それは不易風でも流行風でもないが秀逸、ということか。
不易が今だけで過去にも未来にもないなら、それを「不易」と呼ぶことはできないだろう。やはりこの論理も破綻している。
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