2018年10月22日月曜日

 今日も十四夜の月が綺麗だ。
 それではようやく『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、翁滅後、門弟の中に挟る俳諧の賊あり。茶の湯・酒盛の一座に加ハリ、流浪漂白のとき、一夜の頭陀を休め給ふはたごやなど(に)いでて、門弟の数につらならんとするあぶれ者共、ミだりに集作る。
 一流の繁昌にハよろしといへども、却て一派の恥辱・他門のあざけり、旁(かたがた)かた腹いたく侍らんか。高弟眉をしかめ、唇を閉給ふと見えたり。
 廿一、去来曰、阿兄の言誠になげくべき物也。然ども蕉門の高客、今世にある者すくなからず。彼何ぞ我正道をさまたぐるに至ン。
 蕉門の流をくむといふとも、世に白眼の者あらば、正に其たがひ有事をしらん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.61)

 芭蕉亡き後、本当に世間の俳諧への興味が薄れているなら、門弟の数につらならんとするあぶれ者共もそんなたいした数ではなかろう。たくさんいるなら、俳諧がまだまだ繁昌しているしるしで、それは喜ぶべきことだ。
 ただ、裾野がいくら広くても頂点がないなら、先はおぼつかない。だから本当に嘆かなくてはいけないのは、蕉門の高弟の方であろう。
 去来も最初は一応、芭蕉の高弟の多くはまだ健在だし、間違ったことをやる奴は世間もわかっていて、白眼視するだろうとたしなめてはみるものの、離反する高弟も多く、話はそこで終らない。

 「近年書林に歳旦を持来りて、我ハ蕉翁の門人也、三物帖に蕉翁の門下と一ツに並書すべしといふ輩多し。
 湖南正秀一日告予曰、今歳旦之三ツもの、先師の門人の分、此を別禄す。
 其内、先師在世の間、いまだ名を聞ざる者おほし。以て憎べき事也。此後書林に正し、先師直示の門人のしらざる者ハ、此をはぶかん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.61~62)

 正月に発句・脇・第三からなる三つ物を作り、それを歳旦帳として出版するのは習いだった。
 コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「俳諧の宗匠家では,正月の慣習として側近の連衆(れんじゆ)と歳旦の〈三つ物〉をよみ,これに知友・門下の歳旦,歳暮(年始,年末の意)の発句(ほつく)を〈引付(ひきつけ)〉として添え,刷物にして配った。その刷物の数丁に及ぶものをいう。また,各宗匠の刷物を版元で合綴した〈三つ物揃〉をもいう。人々はこれを〈三つ物所〉の店頭,または街頭の〈三つ物売〉から買い求め,各宗匠の勢力の消長と作句の傾向や技量を評判しあった。」

とある。
 歳旦帖はその門の顔であり、そこに名を連ねれば多くの人がその人を門人として認めるわけだから、何とかそこにもぐりこませようとあの手この手の人もいそうだ。
 そうやって結構去来の知らない名前が並んでたりしたのだろう。ただ、芭蕉も旅のあちこちでいろいろな人と関わっているから、一概に似せ物とも言えまい。

 「去来曰、吾子の言勿論なり。然ども其内、或ハ先師の門人に再伝のものあらん。
 又先師ハ慈悲あまねき心操にて、或ハ重て我翁の門人と名乗らんといふもの、其貴賎・親疎トをわかたず、此をゆるし給ふものおほし。却而世に名をしられたる他門の連衆などの此を乞にハ、ゆるし給ハざるもあり。
 如此の輩、我蕉翁の流なりといへるも、又さもあるべし。
 今此をあらためのぞかんハ、却て隠便の事にあらず。ただ其儘ならんにハしがじと、云々。
 今乱に集作りて、我翁をけがすに似たりといへども、尤此をいとふにたらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)

 芭蕉は貴賎・親疎を問わず弟子にしてきたし、そういう連中を排除すべきではないし、たとえみだりに集を作って芭蕉翁を汚すように見えても、厭うべきではない、とこれは当然と言えよう。蕉門の裾野の広さは蕉門の実力の証だからだ。

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