今日から長月。暑いと思っていても既に晩秋。
それでは「牛部屋に」の巻の続き。
二十五句目。
橘さけばむかし泣かるる
草むらに寝所かゆる行脚僧 丈草
橘が咲けば悲しくなるから、野宿する場所を変える。
二十六句目。
草むらに寝所かゆる行脚僧
明石の城の太鼓うち出す 去来
明石城は小笠原忠真の築城で、宮本武蔵もここにいたという。ただ、その後改易が相次いで城主が点々と入れ替わり、天和二年に越前家の松平直明が入城し、ようやく落ち着いたという。(ウィキペディア、「明石城」参照)
明石市教育委員会のサイトによれば、今日の明石神社には明石城太鼓があり、「明石城築城以来太鼓門に置かれ、時刻を知らせていたものです。」とある。
明石の太鼓の時を告げるのを聞いて、草むらに寝所を定める。
二十七句目。
明石の城の太鼓うち出す
大かたはおなじやうなる船じるし 野童
明石は廻船の寄港地で、北前船が大坂と蝦夷との間を通っていた。
コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」の「船印」のところには、
「また近世期膨大な数に上った商船や廻船(かいせん)では、船主の家紋や名前を1、2字使用した模様などが、帆や船尾に掲げる旗に描かれた。」とある。北前船の場合は縦に黒い線を入れたものが多く、それが「大かたはおなじやうなる船じるし」だったのか。
今日では船首と船尾にその国の旗を掲揚することで、どこの国の船かを識別する。今話題の旭日旗も、本来は日本の軍艦である事を示す国際法に基づく軍艦旗で、一九五四年に自衛隊が発足した時に「自衛隊旗」として復活した。ただ、紅白の放射状のデザインはお目出度いということで、漁船の大漁旗やあけぼのの缶詰、朝日新聞、アサヒビールなど企業のマークにも広く用いられている。
ただ、二〇一二年頃から韓国で「戦犯旗」と呼ばれるようになって、反日キャンペーンに利用されている。
二十八句目。
大かたはおなじやうなる船じるし
ちからに似せぬ礫かゐなき 正秀
これは印地(石合戦)に転じたか。印地はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「 川原などで、二手に分かれて小石を投げ合い勝負を争う遊び。鎌倉時代に盛んで、多くの死傷者が出て禁止されたこともあったが、江戸末期には5月5日の男の子の遊びとなった。石合戦。印地打ち。《季 夏》「おもふ人にあたれ―のそら礫/嵐雪」
とある。
石合戦といってもガチに戦えば死者も出かねないので、平和な江戸時代ではたいていは手加減して行われていたのだろう。
旗を立てて合戦ぽくしてはいても、結局は同じような旗を立てた日ごろの仲間同士。
印地は夏の季語だが、ここでは印地の文字はない。
思う人にあたれ印地のそら礫 嵐雪
の句も気になるが、これはどこからともなく石が飛んできて、思う人に当たり、「いでっ」と言ってこっちを振り向かないかな、というものか。
二十九句目。
ちからに似せぬ礫かゐなき
ゆるされて女の中の音頭取 芭蕉
「音頭(おんど)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「民謡などで全体の進行をリードする者,またはその者が独唱する口説 (くどき) 節の名称。建築や踊りなどで,歌や掛声でこれを指揮する者を音頭取りという。江戸時代後期に口説節が流行すると,盆踊りに取入れられ,1人が独唱し,踊り手が囃子詞を斉唱するために,その歌も音頭の名で呼ばれた。もっぱら地名をつけて,河内音頭,江州音頭,伊勢音頭などと呼ぶ。明治以後に作られた新民謡でも,口説でなくともこの名をつけて呼ばれることが多い。」
とある。
今日の盆踊りなどで演奏される音頭はもっぱら明治以降の新民謡で、東京音頭は昭和初期。その前身となるような河内音頭でも江戸後期だから、芭蕉の時代の盆踊りがどういうものかはよくわからない。
盆踊りは普通に行われて秋の季語だったので、音頭という音楽はなくても導入部を仕切る音頭取りはいて、それも秋の季語になったということだろう。
女の中に男が一人というのは、なんとも間が悪く、笛吹けども躍らず、いわゆる「なしの礫」ということか。
三十句目。
ゆるされて女の中の音頭取
藪くぐられぬ忍路の月 路通
盆は旧暦七月十五日、満月なので明るくて、こっそり女のもとに通うのには向かない。でも許されて音頭取りになれば堂々と逢いに行ける。
0 件のコメント:
コメントを投稿