ここで貞享五年六月十九日興行の惟然の句を見てみよう。
肝のつぶるる月の大きさ
苅萱に道つけ人の通るほど 惟然
月が大きく見えるのは登ったばかりの月で、地平近くある月から一面の薄が原に登る月を思い浮かべたのであろう。武蔵野の月として画題にもなっている。
茅の原に茅を刈って道を作る人を思い描く。月に茅は月に薄と同様で物付けといえよう。
秋の風橋杭つくる手斧屑
はかまをかけて薄からする 惟然
茅を刈る、薄を刈る、と趣向がかぶって、遠輪廻と言えなくもない。
琴ならひ居る梅の静さ
朝霞生捕れたるものおもひ 惟然
梅に朝霞はわかるが、「生捕れたるものおもひ」が何のことなのかわかりにくい。さらわれてきた姫君か、売られてきた遊女か。
牛のくびする松うごきけり
覆なき仏に鳥のとまりたる 惟然
牛を繋いだ松は動き、野の仏像には鳥がとまるとこれは向え付け。
物付けに向え付けと、蕉風確立期の風の付け句を行っている。惟然も最初から惟然風だったわけではないようだ。
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