今日も赤い大きな月が昇るのを見た。十七夜の月。
安田純平の断片的なコメントが報道されているが、印象としては三年四ヶ月の間独房に隔絶されて、外の情報はおろか人に接することもほとんどなかったのではないかと思えてきた。なら完全に空白の三年四ヶ月で、コメントできるようなこともほとんどないだろう。
マスコミもしつこくコメントを求めるようなことはやめて、そっとしといてあげたほうがいい。こういうときこそ報道しない自由を行使した方がいい。
開放のいきさつについても、下手にばらすと次の救出活動に支障をきたす恐れがあるから、あまり詮索しない方がいいのかもしれない。
それでは『俳諧問答』の続き。
「来書曰、集作りて善悪の沙汰に及ぶハ、当時撰集の手柄也。頃日の集ハ、あて字・てにをハの相違・かなづかひのあやまり、かぞふるにいとまなし。しらぬ他門より論ぜば、高弟去来公のあやまりと沙汰し侍らんもむべならんか。
廿二、去来曰、此何といふことぞ。今諸方の撰集、その拙きもの、予が罪を得ん事、近年俳書のおこるや、我此をしらず。ただ浪化集のみ、故有て此を助成す。
もし浪化集に誤処おほくバ、此予が罪のがれがたし。其他ハあづからず。又蕉門の高客、国々処々にまづしからず。世人なんぞ罪を予一人にせめんや。
我京師に在といへども、惣て諸生の事にあづからず。ただ嵯峨の為有・野明、長崎の魯町・卯七・牡年のみ、故ありて予此を教訓ス。その余ハ予があづからざる所也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.63~64)
江戸時代の初期に急速に出版産業が盛んになったことは世界でも稀有なことだろう。
しかもそれが金属活字ではなく木版印刷で、出版の内容もまた多岐に及び、俳書もまた出版ラッシュだった。
木版印刷は多種多様な書籍を少量印刷するのに適していて、そのことが出版文化を広めるのに役だったのではないかと思う。
限られたアイテムを大量生産しても、それを必要とする人には安価な本が手に入るかもしれないが、必要としない多くの大衆は置いてきぼりになり、無消費者になってしまう。
手工業の段階で最初から多様で細分化された市場が形成され、無消費者層が少なかったことが、日本の強みだったのではないかと思う。
消費文化が未発達な所で工場だけ建てて大量生産しても、買う人がいないところでは経済は発展しない。日本は工業化以前に消費文化が出来上がっていた。だから明治以降の工業化もスムーズに進んだ。そして工業化されながらもそれまでの職人文化が共存したことが、工業製品の品質を高めるのにも役だったのではないかと思う。
木版印刷の場合、まず能筆の人の書いた原稿を裏返して版木を彫っていくわけだから、誤字脱字は版木職人ではなく最初の原稿の方にあったと思われる。
実際には芭蕉自筆の原稿でも誤字脱字は存在していて、まあ人間である以上、完全な清書原稿を書くことは能筆家であっても難しかったのではないかと思う。
俳諧の裾野が広がれば広がるほど、誤字だけでなく文字表記の習慣の地域差のようなものもあったのではないかと思う。
蕉門の俳書に誤字があったからといって、そんな誰も去来さん一人が悪いなんて思わなかっただろうし、許六の難も筆がすべっただけではないかと思う。
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