今日は吉祥寺に行った。ねこ祭りというイベントがあったが、参加しているのが小さな店が多く見つけにくかった。
動物園ではツシマヤマネコを見た。アニメの「アンゴルモア元寇合戦記」に毎回隠しキャラのように登場していたが、実物を見た。寝ていた。
それでは『俳諧問答』の続き。
「来書曰、元来たくみ拵たる不易・流行なれバ、不易・流行いまださだまらざる世界ハ、俳諧秀逸あるまじくや侍らん。
十六、去来曰、論高して、語意愚耳に落ず。
推て以ておもふに、二ッの品いまだ分れざる以前にハ秀逸ハ有まじきやと、難じ給ふと見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.56~57)
許六は皮肉で、不易流行が秀句を生むために不可欠な説だというなら、芭蕉が不易流行を説く前は秀逸がなかったのか、そんなことはない、というわけだが、去来はまともに受け取らずに、天然なのか意図的なのかわからないが曲解して返答する。
芭蕉が不易流行を説いたのが『奥の細道』の旅の後なら、古池の句は不易流行説を立てる前の句で、もちろんこれが秀逸でないはずはない。秀逸な句はそれ以前にもあるし、不易流行は後から立てた理論で、理論先行しで理論通りに作れば秀逸になるなんてことはない。
どんな理論でも理論が秀逸を生むことはない。もっともAIが高度に発展すればディープラーニングシステムが人間の思いもよらぬ理論を思いついて、秀逸をコンピュータが作る時代が来るかもしれない。ただ、今の時点では理論は秀逸を後から説明するだけで、理論は秀逸を生まない。
だから許六の指摘は当たり前のことを言っているだけで、同じように血脈の論以前には秀逸はなかったのか、虚実の論以前には秀逸はなかったのかということになる。あるにきまっている。
「先不易・流行さだまらず先といふ理なるべし。凡俳諧ハ和歌の一体たり。上下を分て此をいふもの、和泉式部の句有といへり。実・不実をしらず。平忠盛・源頼朝の句ハ書にのせたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)
和泉式部の句というのは『金葉和歌集』巻十の、
「和泉式部が賀茂に参りけるに、藁うづに足を食は
れて紙を巻きたりけるを見て、神主忠頼
ちはやぶるかみをば足に巻くものか
和泉式部
これをぞ下の社とは言ふ」
のことと思われる。これを後の連歌の表記法に直すと、
ちはやぶるかみをば足に巻くものか
これをぞ下の社とは言ふ 和泉式部
となる。「実・不実をしらず。」というのは去来が『金葉和歌集』を読んでなくて、誰かから伝え聞いたものだったからであろう。
平忠盛の句は『平家物語』の、
いもが子ははふほどにこそなりにけれ
という忠盛の句に、白川院が
ただもりとりてやしなひにせよ
と返したものをいうと思われる。
源頼朝の句は『吾妻鏡』にある。
はしもとの君にはなにかわたすべき
という頼朝の句に、
ただそまかはのくれてすぎばや
と梶原景時が付ける。忠盛・頼朝の句は書籍で裏を取っていたのであろう。何となく去来の読書の傾向が知れる。
「式部・忠盛・頼朝、又おのおのその代の風たるべし。よし神代よりはじまるにせよ、已ニ句ある時ハ風有、句なきときハ風もあらハれず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)
まあ、実際はこのような散発的な連歌に「風」と言えるほどのものがあったかどうかはよくわからない。個人の作風でも、ある程度まとまった作品があれば、大体の傾向をその人の作風と呼ぶことができるが、単体では風と言えるのかどうかわからない。
このあたり、去来は「風」をあくまで観念的に考えていたように思える。
「此におゐて、俳諧となづくべき物もなし。しかれバ不易・流行なき以前といへる俳諧なかるべし。豈秀逸なきのみならんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)
「已ニ句ある時ハ風有」の場合はその時代の風か、もしくはその作者の風があるという意味で、「句なきときハ風もあらハれず」というのは作品がないのに作風があるわけないという自明のことをいっているにすぎない。
ならば俳諧がなかった時代は、当然俳諧の風もなかったといくことになる。だが、「不易・流行なき以前といへる俳諧なかるべし」は論理が飛躍している。「風」という言葉の意味を、その時代の風・その作者の風ではなく、不易の風・流行の風に変えてしまっている。
×此におゐて、俳諧となづくべき物もなし。しかれバ不易・流行なき以前といへる俳諧なかるべし。
○此におゐて、俳諧となづくべき物もなし。しかれバ風を論ずべき俳諧なかるべし。
であろう。もちろん作品が存在しないのだから秀逸が存在するはずもない。
問題になっているのは、芭蕉が不易流行を説く前に秀逸があったかどうかで、俳諧そのものが存在しなかった時代のことを言っているのではない。
これが去来一流の詭弁なのか、それとも案外許六の皮肉がわかってなかったのか、とにかくこの議論は噛み合ってない。まあ、世の中に確かに皮肉の通じない人間というのはいるが、去来もその類だったか。
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