2018年10月11日木曜日

 キリスト教の場合、『聖書』の「ヨハネの福音書」の冒頭に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあるように、昔から言葉を超越的な存在と考える思想があった。
 言葉は人間が何を伝えようとするかとは無関係に、言葉自身が一定の意味を持っていて、それがあたかも超越的な真理であるかのように考えられてきた。
 そして、人間は肉体の衣を着た「言葉」であり、人が言語を用いて思考するのではなく、人は言語そのものであり言語が唯一思考するかのように見なされてきた。
 そういう宗教の立場からすると、確かに連句の取り成しなどとんでもない、言語をゆがめ、人格を否定し、神をも恐れぬものかもしれない。
 ただ、それはあくまで一つの宗教の立場であって、我国の神道にはそのような形而上学は存在しない。世界は多様な考え方で成り立ち、思想も宗教も自由でなければならないのは言うまでもないことなので、連句の取り成しは正当である。

 さて、そろそろ『俳諧問答』に戻るとしよう。

 「来書曰、歌に十体あり。定家・西行、初より十体を読んとし給ふ事を聞ず。よみ終て後、十体の姿ハあらハる。時に判者の眼有て、一々体を分ツ。何体の歌読んといへる歌道、片腹いたく侍らんか。
 十五、去来曰、此語阿兄のさす処異也。体と風ハたがひ有。まづ流行ハ風なり。十体ハ体也。体ハ古今にをしわたりて、用捨なし。風ハ時に用捨有。万葉風・古今の風・新古今の風のごとし。又国風あり、一人の風あり。流行ハ時の風なり。故に一時流行といふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.54)

 和歌十体(わかじってい)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「和歌の様式分類。現存の歌論書では『和歌体十種』(『忠岑(ただみね)十体』ともいう。『道済十体』はその抄出)と藤原定家『毎月抄(まいげつしょう)』とに十体論があり、後者の例歌を示すものとして『定家十体』(偽作説がある)がある。『和歌体十種』(壬生忠岑撰(みぶのただみねせん)を疑う説が有力)は、「古歌体、神妙体、直体、余情体、写思体、高情体、器量体、比興体、華艶体、両方体」を「高情体」を中心としてあげ、各五首の例歌を示す。『毎月抄』は、「幽玄様、事可然様、麗様、有心(うしん)体、長高様、見様、面白様、有一節様、濃様、鬼拉体」を「有心体」を中心としてあげる。定家作と偽る『愚見抄』は八体、『愚秘抄』は十八体、『三五記』は二十体を『毎月抄』の十体以外に示している。[藤平春男]」

とある。
 同じ去来門の中で、「我が旗下のものにのぞまれ、二ッを分て案ずる事もあらん。又吟友の会、遊興に乗じ、流行の句をして見せん、不易の句をして聞せんといふ事あり」というのであれば、同じ時代の去来門の風の中で不易体と流行体に分けて詠んでいたことになり、これは言い訳できないだろう。
 貞門、談林、天和調、猿蓑調などは「風」と呼べるかもしれないが、流行調という風はない。同様に不易という風もない。
 「国風あり、一人の風あり」の国風は『詩経』にあるが、一人の風はいわゆるその作者の作風というものだ。
 流行が風だというのは、流行するものが風なのであって、流行そのものが不易に対して一つの風になるというものではない。不易と流行を分けた時点でそれは体というべきだろう。

 「又不易ハ、古今によろしくて用捨なし。此を体といはんも又ちかし。然ども、体ハ己一体ありて、風なし。風と時々の風による。不易ハよろづの体をそなへて、一己の風あり。故に風を時々によらず。時々の風によらざるが故に、又古今にかなへり。かるがゆへに千歳不易なり。風といはずんバ有べからず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.54~55)

 不易は流行によってそのつど変わってゆく風ではないから体に近い。ただ問題は「体ハ己一体ありて、風なし」だ。これは何を根拠にこう断定しているのか。
 忠岑十体と定家十体はそれぞれ体があるが、時代が変わればその内容も変わる。これは風ではないか。忠岑風の十体と定家風の十体があるのではないか。
 その後の論もいたずらに言葉をもてあそぶだけで明晰な論理は見られない。
 要するに、今の去来調(去来風)では不易体と流行体に分けて考えている。それを流行は風であって体にあらず、不易は体であって風にあらずという言葉自体の定義を持ち出して煙に巻いているだけだ。去来調は風であって体にあらず、不易体と流行体は体であって風にあらず、が正しい。

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