2018年10月30日火曜日

 渋谷のハローウィンのお祭り騒ぎも、別に喧嘩で人が死んだわけでもなく、店が襲撃されたわけでもない。ただ泥酔した一部の人間が分けも分からずとんでもない事をしでかしたというところが日本なのだろう。泥酔しても身ぐるみ剝がれる危険はない。日本に酔っ払いが多いのはそういうことだ。
 昔は伝統の祭りの場でこういうことが起きていたが、伝統の祭りのほうはいつしか子供と老人だけになってしまった。寂しい限りだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「又先師の一体につきて感賞し給ふ事をしらず。蕉門の俳諧かくのごとしと、自悟自迷ひて、終に全体を見ず。
 却て同門高客の俳を以て、或ハねばし、或ハ重シとす。
 此、角を取て牛なりと云ン。牛なる事ハ牛なれども、牛の全体を見ず。他日牛尾・牛足を見て、此牛にあらずと争ハんも又むべならずや。
 如此の辟見を以て人に示さんに、豈害なからんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67)

 牛の角の喩えは「群盲象を評す」に似ている。違うのは一部しか見てないのは惟然だけで、他の人はあたかも全体を知っているかのように評していることだ。
 だが結局、去来も『奥の細道』の旅を終えた頃の不易流行で蕉門を論じているし、許六はそれより後の『炭俵』の頃の軽みでもって蕉門を論じている。多かれ少なかれ芭蕉の門人達は「群盲象を評す」だったのではなかったか。
 「同門高客の俳を以て、或ハねばし、或ハ重シとす」というあたりは、惟然は芭蕉から特に「軽み」について集中的に教えられていたのではないかと思う。それが後の超軽みに行き着く元となっていたのだろう。
 談林の時代は語句においても趣向においても證歌を引いてこなくてはいけなかった。
 ただ、一句一句一々證歌を引いて検証していたのでは、興行も時間がかかってしょうがない。だから、よく用いられる語句の組み合わせはその作業を省略するようになり、そこから付け合い(付き物)による物付けが多くなったのであろう。
 芭蕉はこうした證歌による検証よりも、実質的な古典の情を重視することで蕉風を確立した。
 ただ、古典に出典を持つ付け筋は、古典の情に縛られ、展開が重くなりがちだった。談林の頃は百韻興行が普通だったが、蕉風確立期には歌仙を巻くにも一日でなかなか終らなくなった。
 そこで、『奥の細道』の旅を終えた頃から、直接古典の情によらなくても、何となく雰囲気でそれっぽいもので良しとすることで風体を軽くした。不易流行説もその文脈で、不易の情を流行の言葉で表現するのが俳諧だという所で説かれることとなった。その不易の情は必ずしも古典によらなくても、朱子学で言うところの「誠」であれば良くなった。
 この不易の誠をはずさなければ、もはや出典関係なく、日常のあるあるネタで十分という所で「軽み」の風が展開されることになった。
 ところが惟然はこのあるあるネタを得意としているわけではなかった。いわゆる話を面白句作るというのが不得手だったのだろう。惟然の句はともすると笑いから離れてしまっている。特に発句はそうだった。
 あるあるとは別の形で笑いを発見するのは、結局元禄十五年の超軽みの風を待たなくてはならなかった。
 芭蕉もおそらく惟然の地味だが何か人と違う「軽み」の理解に、未知の可能性を感じていたのだろう。だから逆に、去来のような不易を基と本意本情に狭めて解釈する古いスタイル(いわゆる猿蓑調)を教えなかったのだろう。これは多分許六や支考にも教えてなかったのではないかと思う。それがこの『俳諧問答』でも対立点になっていたのではないかと思う。
 それがおそらく去来には我慢ならなかったのではないかと思う。

 「予推察を以て坊ヲ俳評す、極めて過当也。然ども坊が一言を以て證とす。
 坊語予曰、頃日師に泥近して、略俳旨を得たり。秀作あたハずといへども、句の善悪ミづから定て人評をまたず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67~68)

 芭蕉としては先輩達の古い風を真似しないようにということだったか。先輩の評は無視していいと言っていたのだろう。

 「又会(たまたま)風国曰、句ハ出るままなるをよしとす。此を斧正するハ、却てひくみに落ト。
 皆先師の当詞と俳談に迷へり。坊ハ迷へりといひつべし。
 又自あざむき、人をたぶらかすものにあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.68)

 風国も京都の医者で芭蕉の晩年の弟子の一人。
 『去来抄』同門評には、

 「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国
 此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日山寺に晩鐘をきくに、曾(かつ)てさびしからず。仍(よつ)て作ス。去来曰、是殺風景也。山寺といひ、秋夕ト云、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端游興騒動の内に聞て、さびしからずと云ハ一己の私也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、若(もし)情有らバ如何(かくのごとく)にも作セんト。今の句に直せり。勿論句勝(まさら)ずといへども、本意を失ふ事ハあらじ。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37~38)

とある。
 風国が出るままに詠んだ句を去来が斧正しているが、勿論去来自身が認めているように「句勝(まさら)ず」。
 まあ、実際には秋の夕暮れのお寺の鐘もその時の気分によって聞こえ方が違うもので、寂しく聞こえるときもあればそうでないときもあるだろう。
 ただ、「晩鐘のさびしからぬも寺の秋」とした時、聞いた人は「何で?」と思うのは確かだろう。普通は寂しいものを寂しくないと言うなら、何か理由があるはずだと思うのは自然だ。その理由が記されていないし行間からも汲み取れないとなると、よくわからない句になり、首をひねってしまう。
 その理由が何らかの形で伝わり、共感を呼び、他人とその情を共有できるなら、たとえ「晩鐘のさびしからぬ」と詠もうとも、その句は成功といえよう。
 芭蕉はひょっとしたら古典の本意本情に囚われずに、今まで誰も詠まなかった新しいものでありながら風雅の誠を踏み外さないものを求めていたのかもしれない。
 ただ、それはあまりに高度なものであったため、惟然も風国もなかなか佳句を残すには至らなかった。
 だがそれを古典の本意本情に戻し、秋の夕暮れの寂しさも鐘の音に元気付けられたと展開したのでは、新味は生まれない。使い古されたパターンに戻ってゆくだけになる。
 去来ならそうする。芭蕉はそれとは違った道を新しい弟子達に進んでほしかったのだろう。
 この句のもう一つの解決法として、「寂し」を「憂し」に対比させ、

 晩鐘も憂きにとまらず寺の秋

という手もあったかもしれない。

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