2018年10月15日月曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「不易・流行ハ別の物にあらず。ただ風の名也。其変ずる所あるを一時と云、変ぜざるもの有を不易とわかつのみ。しかれども、古人此を云俳師なし。先師始て古来の俳諧をその二ッ有を見て、此を分て門人にしめし給ふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)

 『去来抄』「修行教」には、「去来曰、不易の句は俳諧の体にして、いまだ一つの物数寄なき句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62)

とある。
 また流行に関しても、「去来曰、流行の句は己に一ツの物数寄有て時行也。形容衣裳器物に至る迄まで、時々のはやりあるがごとし。 譬ば『むすやうに夏のこしきの暑哉』此句体久しく流行す。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62~63)

とある。不易流行が風であるか体であるかは本来問題ではない。風にも不易流行があり、体にも不易流行がある。
 不易流行は凡そ万物に見られる現象で、それゆえ不易は俳諧に限られず、芭蕉の言うように「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。」(笈の小文)であり、風雅の誠は朱子学の性理の誠であり、人間の本性としての普遍的な概念だったはずだ。
 去来はその不易を「基」や「本意本情」として論じることで形式的なものに狭めてしまっていた。そこが、

 応々といへどたたくや雪のかど   去来
 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし  去来

といった句の限界になっていたと思われる。
 許六の「血脈」、其角の「俳諧の神」には、そうした形式を超えた意味を持っていた。
 ただ許六の論もまた、去来の弱点が不易の体と流行の体に分けていることにあるのではなく、不易の理解の仕方が不十分だった所にあったことに気づいてなかった。そこからこの噛み合わない論争になったのではないかと思う。

 ×不易・流行ハ別の物にあらず。ただ風の名也。
 ○不易・流行ハ別の物にあらず。それは風にもなれば体にもなる。

で良かったのだと思う。『去来抄』の方が後に書かれているとすれば、去来もその点は修正できたのであろう。
 不易流行はもちろん芭蕉が『奥の細道』の旅の後に初めて言い始めたことで、『去来抄』「修行教」にも、

 「去来曰、不易流行は万事にわたる也。しかれども俳諧の先達是をいふ人なし。‥‥略‥‥先師はじめて俳諧の本体を見付、不易の句を立、又風は時々変ある事を知り、流行の句変ある事を分ち教へ給ふ。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,64~65)

とある。

 「名は先師にはじまるといへども、実ハ句と一時に生ずるもの也。先師なんぞ自作為して門人をあざむき給ハんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57~58)

 だから別に先師が不易流行を説く前に秀逸がなかったなんで誰も思ってはいないって。ただ、不易流行を別に意識しなくても、自ずと不易の句や流行の句をみんな作っている、とそこが大事なんで、そんな向きになることではない。

 「然ども古人いへる言あり、詞に達せずして心にうるものハあらじ。阿兄此論の語意、いまだ詞に達せず。おそらくハ烏を以て鵜を弁ずるならん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.58)

 なまじ言葉にしてしまうと、今度は言葉が独り歩きして振り回される危険もある。不易と流行を分けて句を作ることは間違いではないが、不易の理解が不十分だと、ただ古臭い句を不易の句と呼ぶことになりかねない。許六の意図はそこにあったのだと思う。
 近代でも主観の句だとか客観の句だとか言うことがあるが、句を作るときに別にそんなものを意識する必要はない。意識すると言葉に振り回されて、却ってつまらない句になるものだ。
 理論は後から分析するのには役立つが、理論で名句が生まれるなら誰も苦労はしない。むしろ凝り固まった理論をブレイクスルーする時に、傑作というのは生まれるのではないかと思う。

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