2018年11月16日金曜日

 ダライ・ラマさん、いつの間にか日本に来てたようだ。ウイグルのこともあるしチベットは大丈夫なのか。
 まあ、それはともかく、今日はよく晴れていたが、夕方には雲が多くなり、半月は朧だった。
 では「野は雪に」の巻の続き。
 さて、次は季吟の脇を見てみよう。

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
 鷹の餌ごひに音おばなき跡    季吟

 鷹は冬の季語で、飼われている鷹は人に餌をねだる時に甲高い大きな声で餌鳴きする。「鳴く」と師匠の「亡き跡」を掛けている。
 芭蕉も後に『奥の細道』の旅で、加賀の一笑の死を知らされ、

 塚も動け我が泣く声は秋の風   芭蕉

と詠んでいる。昔の日本人は韓国人のように大声で泣いたようだ。そう思うと、鷹の餌鳴きも「アイゴー」と言っているように聞こえる。
 雪の野に鷹というと、

 ふる雪に行方も見えずはし鷹の
     尾ぶさの鈴のおとばかりして
             隆源法師(千載和歌集)
 空に立つ鳥だにみえぬ雪もよに
     すずろに鷹をすゑてけるかな
             和泉式部(和泉式部集)

など、古歌に雪の鷹狩りを詠む歌は幾つもある。それゆえ雪と鷹は付き物で、あえて證歌を引くまでもない。
 それでは第三。ここからが実質的な興行の始まりで、即興のやり取りになる。

   鷹の餌ごひに音おばなき跡
 飼狗のごとく手馴し年を経て   正好

 第三は発句の師恩の情を離れて展開する。とはいえ脇の鷹の餌乞いの声と「なき跡」の掛詞だと、追悼の意は去りがたい。そのため「飼狗のごとく手馴し」と育てられた鷹の気持ちになって、鷹の主人を失った悲しみに泣くとする。苦しい展開と言えなくもない。
 鷹狩りに猟犬は付き物だが、證歌はというとよくわからない。
 『万葉集』巻七、一二八九には、

 垣越ゆる犬呼び越して鳥猟する君
 青山のしげき山べに馬息め君

の旋頭歌もある。
 コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「初見は『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇の43年(359)9月、百済(くだら)から伝えられたといわれている。しかし、鷹は元来、わが国に生息したものであり、その飼養の最初は応神(おうじん)天皇のときという説もある。令(りょう)制では兵部省のもとに主鷹司(しゅようし)が置かれ、「鷹犬調習せむ事」とあり、のち民部省に移し放鷹司と改称された。仏教思想の影響もあって、禁止令も多く出たが、奈良・平安時代にたいへん盛んになり、嵯峨(さが)天皇は儀式典礼に関心が深かったためもあって、『新修鷹経(ようきょう)』を撰(せん)し、君主の娯楽であることを明確にした。仁明(にんみょう)、陽成(ようぜい)、光孝(こうこう)、宇多(うだ)、醍醐(だいご)天皇等々、平安時代の天皇はこれを好み、北野、交野(かたの)、宇多野を天皇の狩場と定めた。『源氏物語』藤裏葉(ふじのうらば)巻にも「蔵人所(くろうどどころ)の鷹かひの北野に狩つかうまつれる」とあるように、のちには蔵人所のもとに鷹飼(たかがい)の職制を定められている。また光孝天皇のときには近衛府(このえふ)の官人または蔵人に鷹・犬をつけて諸国に下し、野鳥をとらせている。これを狩の使(つかい)という。
 正月の大臣家大饗(たいきょう)の儀には、犬飼とともに庭中に参り、酒宴にあずかる。」

など、王朝時代の鷹狩りは鷹と犬がセットになっていたことが窺われる。

0 件のコメント:

コメントを投稿