神無月の月も半月に近づいている。
さて、この辺でまた『俳諧問答』のほうは休憩して、俳諧を読んでみようと思う。
季節的にまだ少し早いが、芭蕉がまだ伊賀の宗房だった頃の唯一現存している俳諧百韻、「野は雪に」の巻を読んでみよう。
寛文五年(一六六五)霜月十三日の興行で、発句は芭蕉(当時は宗房)の主人だった藤堂良忠(俳号は蝉吟)、脇は京の季吟だが脇だけの参加なので、書簡による参加であろう。それに正好、一笑、一以、それに執筆が一句参加している。
田中善信の『芭蕉二つの顔』(一九九八、講談社)によると、一以は明暦二年(一六五六)の『崑山土塵集』や『玉海集』に入集歴があり「宗匠格」ではないかとしている。正好、一笑は商人ではないかとしている。一笑は芭蕉が「塚も動け」の句を詠んだ加賀の一笑とは別人。
この興行は貞門の祖松永貞徳の十三回忌追善俳諧で、発句は、
野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉 蝉吟
これに、季吟が、
野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
鷹の餌ごひに音おばなき跡 季吟
と付けた所で始まる。
紫苑は秋の季語だが、ここでは「雪」と組み合わせることで冬の句となる。
紫苑は別名「鬼の醜草(おにのしこぐさ)」ともいう。
忘れ草我が下紐に付けたれど
鬼の醜草(しこくさ)言にしありけり
大伴家持
の歌もある。原文には「鬼乃志許草」とあるが、なぜかネットで見ると「醜(しこ)の醜草(しこくさ)」になっている。
曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、『袖中抄』を引用し、
「鬼醜女草、これ紫苑也。鬼のしこ草とは別の草の名にあらず。忘草は愁を忘るる草なれば、恋しき人を忘れん料に、下紐につけたれど、更にわするることなし。忘草といふ名は只事にありけん、猶恋しければ鬼のしこ草也けりといふ也。」
と書いている。
忘れるなら忘れ草(萱草)、忘れないなら紫苑だった。
「枯れぬ紫苑」は決して忘れることがない、という意味で、「紫苑」は「師恩」に掛かる。貞徳さんのご恩はたとえ野が雪に埋もれても決して枯れることがない、忘れることのできない師恩ですというのがこの発句の意味になる。
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