この前は「恥」について考えたから、今日は「罪」について考えてみようか。
人間が高度な知能を持つに至り、寝込みを襲ったり飛び道具を使ったり集団で襲い掛かったりして非力なものでも勝てるチャンスが出てくると、単純に腕力でもって順位を付けることが困難になり、最終的には多数派工作の勝負となっていった。
ここで人間は多数派工作のために仲間を気遣い、積極的に利他行動を取るようになった。もちろん「情けは人のためならず」という諺のとおり、それは結局自分のためでもあった。
ただ、良かれと思ったことでも結果的には人を傷つけてしまうこともある。そういうときに「あいつには悪いことをしてしまった」と反省する。おそらくそこから罪の意識というのは生じたのだろう。
恥と違うのは、漠然とした集団からの排除に対する不安ではなく、明確に誰かに対して悪いことをし、「そりゃああいつだって怒るよな」と、仲間にするはずが敵になってしまうのではないかという不安から来るのが罪の意識だった。
そしてそれを防ぐために自分に対して不利益になるようなことをわざと行い、バランスを取るのが罰の起源ではないかと思う。
それがやがて社会の中で暗黙の掟となり、罪の意識や自分を罰する行為に留まらず、社会の方から罪を糾弾し、罰則を与え、償いを要求するようになる。それが明文化された法律となったとき、犯罪と刑罰と損害補償に発展する。
そしてさらにその法律に神聖かつ絶対的な権威を持たせるために、一神教の罪の概念が形成されていったのではないかと思う。
恥や原始的な罪の意識と違い、いわゆる罪というのは社会の掟と密接に結びつき、それに対する罰や償いを伴う。
日本にも掟や法律がなかったわけではないが、法律を宗教的な神聖なものとするのではなく、むしろ法律で何もかも杓子定規に規定することを嫌い、恥をもって情状酌量の余地を残す方向に進化したことが「恥の文化」と言われる所以なのではないかと思う。
このことが西洋の「人権」の文化と日本の「人情」の文化との分岐点になっていると思う。
さて、余談はこれくらいにして「野は雪に」の巻に続きと行こう。
三の懐紙の表に入る。
五十一句目。
覆詠も古き神前
春の夜の御灯ちらちらちらめきて 一笑
神社の場面なので神前に灯る火を付ける。「ちらちらちら」というオノマトペの使用は蕉門の軽みの風にしばしば現れ、やがては惟然の超軽みでも用いられてゆくが、散発的には貞門の時代にもあった。
五十二句目。
春の夜の御灯ちらちらちらめきて
北斗を祭る儀式殊勝や 一以
「御灯(ごとう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 神仏・貴人などの前にともす灯火。みあかし。
2 陰暦3月3日と9月3日に天皇が北辰(北極星)に灯火をささげる儀
式。また、その灯火。みとう。
「三月には三日の御節句、―、曲水の宴」〈太平記・二四〉」
とある。そのまんまの意味。
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、
「御灯には陰暦三月三日に天子が北斗星に御灯を捧げるの意があるが、それに拠る付けではなく、ここでは普通の御灯として北斗をつけた。」
とあるが、なぜそれに拠る付けではないのか説明されてない。不可解な注だ。
五十三句目。
北斗を祭る儀式殊勝や
出し初る船の行衛を気遣れ 宗房
北斗七星のうちの五つの星は、日本では船星と呼ばれていた。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「夏空の北斗七星のうち,α星とβ星を除いた5つの星を船に見立てた和名。北斗七星全体をさす地方もある。」
とある。
だが、実際に進水式の時に北斗を祭る習慣があったのかどうかは定かでない。
余談だが、我国の天皇は道教の天皇大帝から来たという説があり、天皇大帝は北辰の神であり、すべての星がこの周りを回る天の中心の神だった。
ただ、古代の北辰は今日の北極星のことではない。天の北極は長い年月を経て位置が変わっていて、紀元前にはこぐま座のβ星に近かったという。さらに五千年前ともなるとりゅう座のα星のあたりが天の北極だったという。
北斗はこの天の北極を回る沈まない星、つまり周極星として信仰されるようになった。コトバンクの「北斗信仰」の項の「世界大百科事典内の北斗信仰の言及」には、
「《史記》天官書などの記述によると,北極星は天帝太一神の居所であり,この星を中心とする星座は天上世界の宮廷に当てられて紫宮,紫微宮とよばれ,漢代には都の南東郊の太一祠においてしばしば太一神の祭祀が行われた。その後,讖緯(しんい)思想(讖緯説)の盛行につれて,後漢ころには北辰北斗信仰が星辰信仰の中核をなすようになり,北辰は耀魄宝(ようはくほう)と呼ばれ群霊を統御する最高神とされた。これをうけた道教では,北辰の神号を北極大帝,北極紫微大帝もしくは北極玄天上帝などと称し,最高神である玉皇大帝の命をうけて星や自然界をつかさどる神として尊崇した。」
とある。
なおウィキペディアによると、天皇という称号は中国にもあったという。
「中国の唐の高宗は「天皇」と称し、死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」の諡(おくりな)が付けられた。これは日本の天武天皇による「天皇」の号の使用開始とほぼ同時期であるが、どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていない。」
韓国では天皇のことを日王と呼ぶが、これだとかつて征夷大将軍に対して中国から送られた「日本国王」の称号と紛らわしい。
五十四句目。
出し初る船の行衛を気遣れ
涙でくらす旅の留守中 蝉吟
船の行衛を気遣うとなれば、旅人の留守を預る家族の情となる。
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