今日は谷中のあたりを散歩した。谷中ビールを飲んで、夕焼けだんだんや諏訪神社など、子供の頃の思い出のある場所をめぐった。
それでは「野は雪に」の巻の続き。
二十一句目。
鞠場にうすき月のかたはれ
東山の色よき花にやれ車 一笑
鞠場ということで王朝時代のイメージを引き継いだまま花の定座になる。
京都東山の桜に牛車ということになるが、破(や)れ車ということで変化をつけている。後の芭蕉なら「さび色があらわれている」と言う所だろう。
ネットで「やれ車」を調べたら、今でも中古車業界では車の劣化を表わすのに「ヤレ」という言葉を使っているようだ。
二十二句目。
東山の色よき花にやれ車
春もしたえる茸狩の跡 一以
「茸狩」は秋のものだが、跡なので秋に茸狩りをした思い出を慕ってということだろう。没落貴族だろうか。
二十三句目。
春もしたえる茸狩の跡
とゝの子を残る雪間に尋ぬらし 蝉吟
「とゝの子」は意味不明。父親の「とと」にしても魚の「とと」にしても意味がわからない。
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、
「『とらの子』の誤写か。前句の茸狩を竹林の狩として、とらの子をつけた。」
としているが、これも何かしっくりこない。竹林に茸というのはあまり聞かないし、何でわざわざ虎の子を尋ねてゆくかもわからない。比喩としての「虎の子」ならまだわかるが。
『校本芭蕉全集 第三巻』には原本の書体がまぎらわしいため、全文の摸刻が掲載されている。それを見ると、たしかに「と」のような文字のしたにチョンとしてあるように見える。「之」にも似ている。
あるいは前句の「たけ」を「竹」と取り成し、之の子を雪間に尋ねるとしたのかもしれない。ならば孟宗の「雪中の筍」の故事になる。植物は三句続けることができないので「竹」は出せない。
二十四句目。
とゝの子を残る雪間に尋ぬらし
なつかで猫の外面にぞ啼 宗房
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「前句の『とらの子』を虎猫とした。」とある。
「之の子」だとすれば、猫が自分の子供の所へ行き、外で啼いているとなる。
二十五句目。
なつかで猫の外面にぞ啼
埋火もきへて寒けき隠居処に 一以
猫といえば火燵。だが、ここでは「埋火(うづみび)」。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説には、
「炉や火鉢などの灰にうずめた炭火。いけ火。《季 冬》「―もきゆやなみだの烹(にゆ)る音/芭蕉」」
とある。その上にやぐらを組んで布団を載せたものが火燵(こたつ)になる。
火が消えて寒いから猫が寄ってこないというのは、やや理に走った感がある。
二十六句目。
埋火もきへて寒けき隠居処に
湯婆の湯もや更てぬるぬる 一笑
湯婆(たんぼ)は湯たんぽのこと。ゆばーばではない。
生活感があり、「軽み」のようでもあるが、何のひねりもないところがやはりこの時代の風か。
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