家の近所でお散歩花見をした。五分から七分咲き。
キムチというと最近は国産キムチと安価な中国キムチがあるだけで、最近韓国本場のキムチを見ない。韓国政府が中国への輸出を禁止するなら、日本に回してくれ。少なくとも俺は食べる。台湾のパイナップルはどこで売ってるかわからないからまだ食べてないけど。
あと、大河ドラマがつまらない理由は結局ポリコレなんだろうなと思う。過去の時代をリアルに描こうとすると、下人もいれば、女性差別の問題も出てくる。それとお隣の国への配慮から壬辰倭乱や征韓論を描けないだとか、多分今回も併合を描くかどうかはもめたのではないかと思う。あと、壬申の乱や元寇や南北朝時代も基本的にタブーとなっている。
三谷さんの「真田丸」でも名護屋城を出すのがやっとだったし、美化した話に作ってはいたが真田幸村の妾も登場した。この次の「鎌倉殿の13人」はどこまでやれるのか、時代考証も大変だと思う。
それでは『三冊子』の続き。
「たが聟ぞしだに餅負ふ牛の年
此句は、丑の日のとしの歳旦也。此古躰に人のしらぬ悦ありと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.114)
これは貞享二年、『野ざらし紀行』にも登場する句で、元禄十三年刊乙孝編の『一幅半』にの収録されている。
貞享二年(一六八五年)は乙丑(きのとうし)で一月四日が同じく乙丑になる。大分前に『野ざらし紀行─異界への旅─』を書いたときには、
「『歯朶に餅おふ』は、新年に聟が舅の家へ鏡餅にシダを添えて送る風習によるものらしいが、詳しいことはよくわからない。シダは今日でいう裏白のことか。裏白は今でも鏡餅の下に敷くが、かつては正月のわらべ歌に、
お正月さん、どこまでござった。羊歯(しだ)を蓑に着て、つるの葉を笠に着て、門杭(かどくい)を杖について、お寺の下の柿の木に止まった。
というふうに歌われていたように、正月さんの蓑にも見立てられた。餅を背負って歩く牛の姿は、まさに正月さんの旅姿といえよう。
歳旦の句にその年の干支(えと)を折り込むのは、この頃より半世紀くらい前の貞門(松永貞徳門)の俳諧では、しばしば行なわれていた。
霞みさへまだらにたつやとらの年 貞徳
雪や先(さき)とけてみずのえねの今年 徳元
土芳の『三冊子』に「此句は、丑のとしの歳旦や。此古体に人のしらぬ悦(よろこび)ありと也。」とあるのは、そのことを指すのであろう。」
と書いた。今のところこれ以上に言えることはない。
「七夕や秋を定むるはじめの夜
此句、夜のはじめ、はじめの秋、此二に心をとゞめて折々吟じしらべて、數日の後に、夜のはじめとは究り侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.114~115)
元禄八年刊支考編の『笈日記』に、
七夕 草庵
たなばたや龝をさだむる夜のはじめ 翁
高水に星も旅ねや岩のうへ
後の句の心はなにがしの女の岩の
上にひとりしぬればとよみけむ
旅ねなるべし。今宵この事語り
出たるつゐでのゆかしきにしる
し侍る
とある。高水にの句の方は先に紹介されていて、元禄九年刊の史邦編『芭蕉庵小文庫』の小町と遍照の歌を元にしていた。
「はじめの夜」の方の句は元禄八年刊浪化編の『有磯海』に、
七夕や秋をさだむるはじめの夜 芭蕉
とある。同じ元禄八年刊だが数日違いでこの違いが出てしまったようだ。
これは意味的には一緒なので、あとはリズムの問題だろう。「はじめの・よ」の四一のリズムよりも「よの・はじめ」という二三のリズムの方が安定感がある。ただ「夜のはじめ」は倒置になるので、「はじめの夜」の方が意味はわかりやすい。
「丈六のかげろふ高し石の上
かげろふに俤つくれ石のうへ
此句、當國大佛の句也。人にも吟じ聞せて、自も再吟有て、丈六の方に定る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.115)
この句は『笈の小文』には、
「伊賀の国阿波の庄といふ所に、俊乗上人(しゅんじょうしゃうにん)の旧跡有り。護峰山新大仏寺とかや云ふ、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎(いしずゑ)を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六(じゃうろく)の尊像は苔の緑に埋れて、御ぐしのみ現前とおがまれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全(まったく)おはしまし侍るぞ、其の代の名残疑ふ所なく、泪こぼるるばかりなり。石の蓮台、獅子の座などは、蓬・葎(むぐら)の上に堆(うづたか)く、双林(さうりん)の枯れたる跡もまのあたりにこそ覚えられけれ。
丈六にかげらふ高し石の上
さまざまの事おもひ出す桜哉」
とある。「丈六の」の句形は、元禄八年刊支考編の『笈日記』で、
そのとし阿波といふ所の大佛に詣して
丈六のかげろふ高し石の上 芭蕉
とある。「俤つくれ」の方はこの『三冊子』と土芳編の『芭蕉翁全伝』に見られるのみで、土芳が芭蕉本人から聞いた独自の情報であろう。
「かげろふに」の句は前書きがないと何の石なのかすらわからない。「丈六」の言葉があって初めて丈六仏(一丈六尺の仏像)のことだとわかる。丈六を補って、陽炎がその俤だということは読者が気付くはずだと確信しての省略になる。
「明ぼのや白魚白きこと一寸
この句、はじめ、雪薄し、と五文字あるよし、無念の事也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.115)
これは「草臥て宿かる比や」の句と同様、季語の問題での改作と思われる。
桑名の辺りの白魚漁は『東海道名所図会』(寛政九年刊)にも厳冬の風物をして紹介されていて、この句も冬に詠んだ句だった。ただ、白魚は春の季語であるため、仕方なく「雪薄し」の上五を放り込んで冬の句にしたと思われる。
この句も元禄八年刊支考編の『笈日記』に、
おなじ比にや
濱の地蔵に詣して
雪薄し白魚しろき事一寸
此五文字いと口おしとて後には
明ぼのともきこえ侍し
とある。多分芭蕉から直接託されて句は「雪薄し」の方で、あとから人づてに「明ぼの」に変えたと聞かされたのだろう。確証が持てずにこのような形での掲載になったか。
白魚漁の殺生の罪を気にかけての句で、中世連歌の、
罪の報いもさもあらばあれ
月残る狩り場の雪の朝ぼらけ 救済(きゅうせい)
の句にも通じるものがある。
芭蕉の方法というのは、こうした不易の情を古典の題材を用いずに、今までになかった現在の事象で詠むことで、白魚にそれを見出した句といえよう。
おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 芭蕉
の句も同様のテーマの句といえる。
『去来抄』「先師評」で、
猪のねに行かたや明の月 去來
の句に対して、
「そのおもしろき処ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿の跡吹おくる荻の上風とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」
と評したと思われる。古典の言葉を繰り返すのではなく、新しい言葉を見つけ出せというのが、不易にして流行する俳諧だった。
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