今日の東京の新規感染者数は四百人を越えた、下げ止まりの後安定傾向が見えていたが、どうやら上昇トレンドに移行しそうだ。株だったら買いチャンスなんだけどな。
あと、同性婚には別に反対はしない。憲法解釈だけでいいのか改正した方がいいのかという問題は残るかもしれない。解釈の問題でいつまでももめるようなら改正した方がいい。
まあ、1946年の時点のアメリカでは同性婚を全く想定してなかったから、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」という条文になったとは思うけど。
アメリカではアジア系を狙ったヘイトクライムが増えているというけど、だからと言って中国政府のコロナや香港やチベット、ウイグル、中国内のモンゴル人、朝鮮(ちょそん)人に対する弾圧、海洋侵略、それにコロナの隠蔽などの所業を許せということにはならない。中国政府の問題と個々の中国人とは別だからだ。
中国系でも自由主義諸国の価値観を共有する人はたくさんいるし、中国の民主化を支持する人もたくさんいる。そういう人たちがアメリカ国内で暴力の犠牲にならないことを望む。
それでは『三冊子』の続き。
「ほとゝぎす聲横たふや水の上
此句はさせる事もなけれども、白露横といふ奇文を味合たると也。一たびは聲や横たふ、とも、一聲の江に横たふや、とも句作有。人にも判させて後、江の字抜て水の上、とくつろげて、句の匂ひよろしき方定る。水光接天白露横江の横、句眼なるべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.105~106)
「水光接天白露横江」の出典は蘇軾の『赤壁賦』で、『前赤壁賦』『後赤壁賦』とある中の前の方にこの詩句がある。その一部を引いておく。
「壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。」
(壬戌の年の秋、七月の十六夜、蘇子は客と船を浮かべ、赤壁のもとに遊ぶ。涼しい風が静かに吹くだけで波もない。酒を取り出して客に振る舞い、明月の詩を軽く節をつけて読み上げ、詩経關雎の詩を歌う。やがて東の山の上に月が出て射手座山羊座の辺りをさまよう。白い靄が長江の上に横たわり、水面の光は天へと続く。小船は一本の芦のように漂い、どこまでも広がる荒涼たる景色の中を行く。)
靄がかかった広大な長江の水の上に、暗くなって上った月が白く照らす。薄月とそれを写す水が淡く光り、なかなか見られない光景を映し出している。
芭蕉の句は月ではなく、水の上に聞こえてくるホトトギスの声の珍しさを詠んだもので、
ほととぎす声横たふや水の上
一声の江に横たふや時鳥
の二句を作ってどちらが良いか沾徳に判を求めている。このことは元禄六年四月二十九日付の荊口宛書簡に記されている。
「ほとゝぎすの句も工案すまじき覚悟に候處、愁情なぐさめばやと、杉風・曾良、水邊のほととぎすとて更にすすむるにまかせて、与風存寄候句、
ほとゝぎす聲や横ふ水の上
と申候に、又同じ心にて、
一聲の江にふやほとゝぎす
水光接天、白露横江の字、横、句眼なるべしや。二つの作いづれにやと推敲難定處、水沼氏沾徳というふ者吊来れるに、かれ物定のはかせとなれと、兩句評を乞ふ。
沾曰、横江の句、文に對して考之時は句量尤いみじかるべければ、江の字抜きて水の上とくつろげたる句の、にほひよろしき方におもひ付べきの条、申出候。兎角する内、山口素堂・原安適など詩哥のすきもの共入来りて、水の上の究よろしきに定まりて事やみぬ。させる事なき句ながら、白露横江と云奇文を味合て御覧可被下候。是又御懐しさのあまり、書付申事に候。」(『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫p.233~234)
この沾徳の判には許六が異議を唱えていて、『俳諧問答』に記している。
「廿日あまりの月かすかに山の根ぎハいとくらく、駒の蹄も
たどたどしくて、落ぬべきあまたゝび也けるに數里いまだ雞
鳴ならず。杜牧が早行の殘夢、小夜の中山におどろく
馬に寢て殘夢月遠し茶の煙
此句、古人の詞を前書になして風情を照す也。初は、馬上眠からんとして殘夢殘月茶の煙、と有を、一たび、馬に寢て、そ初五文字をしかへ、後又句に拍子有てよからずとて、月遠し茶の煙、と直されし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.106)
句の前書きは『野ざらし紀行』の文とは若干異なっている。元禄八年刊支考編の『笈日記』の前書を写したと思われる。『野ざらし紀行』の方は、
「二十日余のつきかすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚く。
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」
とある。杜牧の『早行』という詩は、
早行 杜牧
垂鞭信馬行 数里未鶏鳴
林下帯残夢 葉飛時忽驚
霜凝孤鶴迥 月暁遠山横
僮僕休辞険 時平路復平
鞭を下にたらし、ただ馬が行こうとするがままにまかせ、
数里ほどやって来たのだが、未だ鶏鳴の刻には程遠い。
林の下に明け方の夢の続きをぼんやりと漂わせていたのだが、
落ち葉の飛び散る音にはっと驚き目がさめた。
降りた霜がかちんかちんに固まり、ひとりぼっちの鶴がはるか彼方に見え、
暁の月は遠い山の端に横たわる。
召使の男はけわしい顔をして休もうと言う。
それもいいだろう。時は平和そのもので、道もまた同じように平和そのものだ。
というもので、「月かすかに見えて、山の根いとくらきに」は「月暁遠山横」、「馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず」は「垂鞭信馬行、数里未鶏鳴」、「早行の残夢」は「林下帯残夢」、「忽驚く」は「葉飛時忽驚」という具合に、この文章の多くが杜牧の詩からの引用されている。
『野ざらし紀行』では「馬上に鞭をたれて」と「垂鞭信馬行」でほぼそのまんまなのに対し、『笈日記』の方は「駒の蹄もたどたどしくて、落ぬべきあまたゝび也けるに」とやや膨らましている。
発句の方は、最初、
馬上眠からんとして殘夢殘月茶の煙
だったのが、五七五も形に近づけ「殘夢殘月」の軽い調子を嫌うことで天和調からの脱却が図られている。
「ちる花や鳥もおどろく琴の塵
この若葉の巻によりて、詞を用いられし句なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.106)
「ちる花や」の句は制作年次は不明の元禄十年刊其角編の『末若葉』所収で、
粛山子のもとめ畵は探雪なり
琴ト笙ト太鼓ト讃のぞまれしに
散花や鳥もおどろく琴の塵 翁
みてひとつあそばして
山の鳥をも驚かし給へ
左
青海や太鼓ゆるまる春の声 素堂
右
けしからぬ桐の一葉や笙の声 其角
の三句が組になっている。
詞書にある通り、この三句は画讃で、中央に芭蕉の句と琴の絵、右に其角の句と笙の絵、左に素堂の句と太鼓の絵があったようだ。
「若葉の巻」は若紫の巻の間違いとされている。若紫巻の源氏の君が北山の僧都の所を離れる朝に、左大臣家から迎えのものが来て盃を上げ、花の下で頭中将が竜笛を吹き鳴らし、左中弁の君が扇をパーカッションにして『葛城』という催馬楽を歌い出すと、篳篥お付きのものの篳篥や笙も加わり、北山の僧都も七弦琴を持ってきて、
「これ、ただ御手ひとつあそばして、おなじくは、山のとりもおどろかし侍らん」
(ならば、ぜひ一曲弾いていただいて、どうせなら山の鳥も驚かしてやりましょう。)
と言って源氏の君の弾くようにせがむ場目を本説にしている。
散花や鳥もおどろく琴の塵 芭蕉
本説を取る時にはオリジナルと少し変える。ここでは咲き誇る花を散る花に変えている。そして鳥も驚かすような琴の演奏が始まるのだが、そこは俳諧なので、僧都が持ってきたのは長いこと使われずに埃を被っていた琴で、鳥を驚かせたのはその埃の方だった、という落ちにする。
ここで芭蕉はもう一つの故事を思い起こさせようとしたのだろう。それは陶淵明が弦のない琴を傍らに置いて撫でていたという故事で、『荘子』斉物論の、昭文のような後世にまで名を残すような琴の名人の演奏でも、ひとたび音を出してしまえば、演奏されなかった無数の音がそこなわれるというところから来たものだろう。
塵を払って琴を弾いてしまえば、無限の音は損なわれ、鳥はその音の価値すら知らずに驚いて飛び去る。それと同じように、この琴の絵は音が出ないからいいのだ、とそういう意味もあったのではないかと思う。
それでもここは源氏の君の北山の僧都との別れの時のように、琴を弾いてくれと左から、
青海や太鼓ゆるまる春の声 素堂
と海に向かって、太鼓の音が春だからといって緩むことなく響き渡り、右から、
けしからぬ桐の一葉や笙の声 其角
と笙を吹くと、桜の花に混じって秋のように桐一葉落ちてくるなんて怪しからんとなる。ただ、この「けしからぬ」も「いみじ」と同様、良い意味に転じて用いる用法もある。
「粽結ふ片手にはさむ額かミ
此句、物がたりの躰と也。去來集撰の時、先師の方より云送られしは、物がたりの姿も一集にはあるべきものとて送ると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.106)
このことは『去来抄』「修行教」にも記されている。
「浪化曰、今いまの俳諧に物語等などを用ゆる事はいかが。去来曰、同くば一巻に一二句あらまほし。猿の待人入し小御門の鎰も、門守の翁也。此撰集の時物語等などの句く少しとて、粽結ふ句を作して入給へり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.76)
「去來集撰の時」は『猿蓑』のことで、
粽結ふかた手にはさむ額髪 芭蕉
が芭蕉の句だということはわかる。問題はこの句がどの場面から取った句なのか、今となってははっきりしないし、『三冊子』も『去来抄』もヒントとなるような言葉がない。
以前筆者が「『去来抄』を読む」を書いたときは、『源氏物語』蛍巻の物語に熱中する玉鬘の乱れ髪を、場面が端午の節句の後だけに、粽結う姿に作り直したのではないかと思ったが、今でも他に納得する答えは得られていない。
多分芭蕉さんは母親のような年上でちょっとやつれたような生活感のある熟女が好みで、それは「芋洗う女」の句にもよく表れていると思う。この句には個人的に思い入れがあって、物語の句だと言って強引にねじ込んだ可能性もある。
「此境はひわたるほどゝいへるもこゝの事にや
かたつむり角ふりわけよ須磨明石
此句は須の巻の詞を前書にしての句なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.106~107)
これも『猿蓑』の句。須磨明石の句だが、『笈の小文』には出てこない。須磨と明石を隔てる鉄拐山などの今日では須磨アルプスと呼ばれる山塊を蝸牛の殻に見立て、左右に角を振り分ければ須磨と明石になるという句だ。鵯越(ひよどりごえ)で知られている一之谷もここにある。
この前書は『源氏物語』須磨巻の、
「あかしの浦は、ただはひわたるほどなれば、よしきよの朝臣、かの入道のむすめを思ひ出でて、ふみなどやりけれど、返事(かへりごと)もせず。」
(明石の浦は海伝いに行けばすぐなので、良清の朝臣はあの入道の娘を思い出して手紙を書いたりしましたが返事がありません。)
から取っている。海伝いに行けばすぐでも、陸路は険しい山に阻まれている。
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