今日は旧暦三月十五日。満月は明日だという。まだ春は続く。
コロナの方は死者が一万人を越えた。今は三月の少なかった時期の死者で感染者の割には少なく見えるけど、五月には一気に増える。
インドは大変なことになっているが二重変異ウイルスのせいだとすると、既にそれは日本に入ってきている。筋少ではないが日本印度化計画だけはやめてくれ。
それでは「いろいろの」の巻の続き。
十三句目。
念仏申ておがむみづがき
こしらえし薬もうれず年の暮 珍碩
作った薬を売り歩いたがなかなか売れず一年がもうすぐ終わる。このままだと借りた金も返せない。神頼みになる。珍碩も医者だったが、こういう生活をしていたか。
十四句目。
こしらえし薬もうれず年の暮
庄野の里の犬におどされ 珍碩
東海道の庄野宿であろう。四日市から鈴鹿越えの道に入る途中の亀山の手前にある。
薬を伊勢の方に売りに行ったが途中で犬に吠えられる。犬も怪しい奴だと思ったのだろう。
十五句目。
庄野の里の犬におどされ
旅姿稚き人の嫗つれて 路通
東海道はいろいろな人が通り、嫗が付き添う子供も旅する。お伊勢参りだろうか。子供が犬に吠えられる。
十六句目。
旅姿稚き人の嫗つれて
花はあかいよ月は朧夜 路通
当時の桜は山桜で白く、ここでは花が「赤い」ではなく「明い」であろう。朧ながらも月の光に照らされている。
十七句目。
花はあかいよ月は朧夜
しほのさす縁の下迄和日なり 珍碩
「和日」は「うらら」と読むらしい。原書にルビはない。『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)による。
海辺か河口域の水上に張り出した茶店か何かだろう。縁の下まで潮が満ちてくるが、波は静かで花に月も揃う。
十八句目。
しほのさす縁の下迄和日なり
生鯛あがる浦の春哉 珍碩
浪も穏やかな縁側で新鮮な鯛も上がってきて、目出度く半歌仙は終わるという雰囲気だ。多分その予定だったのだろう。このあと美濃の二人が続きを作って歌仙にする。
二表。
十九句目。
生鯛あがる浦の春哉
此村の広きに医者のなかりけり 荷兮
鯛の上がる漁村は広いけど医者はいない。「けり」で切れているけど発句の体ではない。一句としては、医者がないから何なのかと何か続く感じが残るあたりが付け句の体になっている。
ちなみに荷兮は医者。珍碩も医者で、蕉門は医者が多い。
二十句目。
此村の広きに医者のなかりけり
そろばんをけばものしりといふ 越人
医者がいない村では、算盤ができるというだけで物知りと言われる。
二十一句目。
そろばんをけばものしりといふ
かはらざる世を退屈もせずに過 荷兮
無学でもこの世を楽しむことを知っていれば、他に何もいらない。ある種それも悟りの境地だ。
二十二句目。
かはらざる世を退屈もせずに過
また泣出す酒のさめぎは 越人
酒を飲むと泣き出すなら泣き上戸だが、醒め際に泣くのは一見のほほんと生きているようで、いろいろな人の悲しみを知り尽くした人なのだろう。
二十三句目。
また泣出す酒のさめぎは
ながめやる秋の夕ぞだだびろき 荷兮
だだびろき、というのは海辺の景色だろう。
見渡せば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋の秋の夕暮
藤原定家(新古今集)
の心で、辺鄙なところに流された在原行平のような境遇なのだろう。酔いが醒めて現実に引き戻されると涙が出てくる。
二十四句目。
ながめやる秋の夕ぞだだびろき
蕎麦真白に山の胴中 越人
前句の「だだひろき」を山の中腹の一面の蕎麦畑とする。
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