今日は一日雨。
豊田章男は電気自動車の問題点ばかり言わないで、電気がないなら作っちゃえばいいじゃないかと思うよ。トヨタが発電事業に参入すれば問題解決。天下のトヨタが動けば日本は変えられる。それくらいの力あるんじゃないかなあ。
それでは「なら坂や」の巻の続き、挙句まで。
二十五句目。
ものごと無我によき隣也
朝夕の若葉のために枸杞うへて 荷兮
枸杞の葉は「日本農業新聞」2010年11月24日の記事に、
「枸杞葉にはベタイン、ルチン、ビタミンCが豊富に含まれています。5~10グラムをせんじて服用すれば、高血圧症に効き目があります。若い葉をさっとゆでて塩で味を付けて刻み、ご飯に炊き込んだクコ飯は、強壮効果が期待できます。」
とある。お隣さんは健康に気を使う人のようだ。
二十六句目。
朝夕の若葉のために枸杞うへて
宮古に廿日はやき麦の粉 羽笠
「廿日はやき」が何に対して二十日早いかよくわからない。ひょっとしたら都では、貞享二年に制定された貞享暦七十二候の麦秋至(むぎのときいたる)よりも二十日も早く麦の粉が売られているということか。温暖な地方から早めに取れた麦が届く。
二十七句目。
宮古に廿日はやき麦の粉
一夜かる宿は馬かふ寺なれや 野水
麦の粉がやたら早く入荷されているから、このお寺の宿は馬でも飼っているのか。
二十八句目。
一夜かる宿は馬かふ寺なれや
こは魂まつるきさらぎの月 旦藁
『芭蕉七部集』の注に、
「『増山井』に『なき魂来ますといふ事一年に数多度あるなれど云々』とある。年に六度(二月十五日、五月十五日、七月十四日、八月十五日、九月十六日、十二月二十日)という。」
とある。如月の望月に魂を祭る寺がある理由はこれでわかるが、馬との関係はよくわからない。
二十九句目。
こは魂まつるきさらぎの月
陽炎のもえのこりたる夫婦にて 越人
陽炎は死者の魂を暗示させる言葉で、親を亡くしてしまったのだろう。如月の月に魂を祭る。
三十句目。
陽炎のもえのこりたる夫婦にて
春雨袖に御哥いただく 荷兮
陽炎に春雨というと、
かげろふのそれかあらぬか春雨の
ふるひとなれば袖ぞ濡れぬる
よみ人しらず(古今集)
の歌が本歌になる。「ふるひと」は「降る日と」と「古人」とを掛けている。
御哥はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 他人の歌を敬っていう語。
2 天皇・皇后や皇族の作歌の敬称。御製(ぎょせい)。」
とある。
陛下から追悼の歌を贈られ、悲しさと有難さの両方に春雨の袖となる。
二裏。
三十一句目。
春雨袖に御哥いただく
田を持て花みる里に生けり 羽笠
自分の田んぼが持てる家に生まれたというのは、それだけでラッキーなことだ。まして花見る里に領主様か何かから歌まで賜って、袖を涙の春雨にするほど有難い。
三十二句目。
田を持て花みる里に生けり
力の筋をつぎし中の子 野水
前句の「生まれけり」を中の子のこととする。親譲りの強健で体力に恵まれている。
三十三句目。
力の筋をつぎし中の子
漣や三井の末寺の跡とりに 旦藁
「力の筋」はここでは有力者の筋ということか。今は末寺だが格上げを計る。
三十四句目。
漣や三井の末寺の跡とりに
高びくのみぞ雪の山々 越人
「たかびく」はgoo辞書の「デジタル大辞泉」に、
「《「たかびく」とも》高いことと低いこと。また、高い所と低い所とがあって平らでないこと。でこぼこ。こうてい。「高低のある道」
とある。
三井寺の向こうに見える琵琶湖を取り囲む山々は高いの低いのあって凸凹としていて雪を抱いている。
三十五句目。
高びくのみぞ雪の山々
見つけたり廿九日の月さむき 荷兮
二十九日の東のギザギザした山の上にかすかに末の二日月が昇る。中々見れるものではない。
こがらしに二日の月のふきちるか 荷兮
は『阿羅野』の句で、このあとに詠むことになる。二十九日の月は付句道具で二日の月は発句道具ということか。
挙句。
見つけたり廿九日の月さむき
君のつとめに氷ふみわけ 羽笠
主人が朝の読経をするのに氷を踏み分けてお伴する。明け方の空に二十九日の月が見える。
冬が二句続いた後の挙句ということで、釈教に転じることで目出度いというよりは殊勝に締めくくったとでもいうべきだろう。
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