前に貞享四年熱田での「磨なをす」の巻六句目の
あきくれて月なき岡のひとつ家
杖にもらひしたうきびのから 桐葉
の所で「とうきび」を何気なくトウモロコシのこととしてしまったが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 植物「とうもろこし(玉蜀黍)」の異名。《季・秋》 〔羅葡日辞書(1595)〕
※寒山落木〈正岡子規〉明治二七年(1894)秋「唐黍に背中うたるる湯あみ哉」
② 植物「もろこし(蜀黍)」の異名。
※俳諧・類船集(1676)土「蜀黍(タウキビ)の穂は土用に出ねはよからぬと農人のいひならはせり」
とある。
杖にできる程の強度があって黍殻として利用されるのは②の蜀黍、近代ではコウリャンと呼ばれてきたものと考えた方がいい。
『春の日』の秋の発句に、
待恋
こぬ殿を唐黍高し見おろさん 荷兮
の句がある。コウリャンは高さが三メートルにもなるというので、どれだけ高い所から見下ろすのか。
また、コウリャンから箒が作られるため箒草とも呼ばれていて、これも箒木と紛らわしい。
それでは「疇道や」の巻の続き、挙句まで。
二十五句目。
薄雪たはむすすき痩たり
藤垣の窓に紙燭を挟をき 珍碩
「藤垣の窓」は『芭蕉七部集』の中村注に、
「藤蔓で竹や木を結び絡げた窓」とある。書院の窓であろう。外の雪景色を紙燭で照らして楽しむ。
二十六句目。
藤垣の窓に紙燭を挟をき
口上果ぬいにざまの時宜 正秀
立派な屋敷の玄関であろう。窓に紙燭を灯したまま客の退出するときの挨拶のやり取りが延々と続く。武家ではよくあることなのだろう。
二十七句目。
口上果ぬいにざまの時宜
たふとげに小判かぞふる革袴 珍碩
革袴はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「なめした革でつくった袴。革は行縢(むかばき)をつくる材料であろう。上杉謙信(うえすぎけんしん)や織田信長の革の裁着(たっつけ)が現存しているので、戦国時代から盛んに利用されたことがわかる。後世はまたぎの狩猟用として用いられた。[遠藤 武]」
とある。日本皮革産業連合会のサイトの「皮革用語辞典」には、
「江戸時代の中期頃から職人、労働用として庶民にも伊賀立付が使用されるようになり、一部が革ぱっち、革の伊賀はかまとして製作されるようになった。」
とある。伊賀の職人に何やら重要な仕事を依頼したのだろう。
二十八句目。
たふとげに小判かぞふる革袴
秋入初る肥後の隈本 正秀
肥後の穂増(ほまし)と呼ばれる米はウィキペディアに、
「穂増(ほまし)は、イネ(稲)の品種の一つであり、江戸時代に栽培されていた古代米(こだいまい)である。熊本県で盛んに栽培された熊本在来種であり、江戸時代に熊本を中⼼に、九州⼀円で栽培され大阪堂島米会所で天下第一の米と称されていた。」
「将軍の御供米(おくま、神仏に捧げるお米)にはこのお米が用いられ、大坂では千両役者や横綱へのお祝い米として「肥後米進上」という立札をつけて贈られていた。市場でひろく流通していた有名な米だったが、平民の間でも寿司米として⼤切に扱われ「肥後米に匹敵する米はない」と言われるほど、高い評価を受けていた。その後「西の肥後米、東の加賀米」と称されるようになり肥後米は、⽇本の米相場を左右するほど多くの人々に食べられるようになった。」
とある。元禄七年の「牛流す」の巻三十四句目に、
吸物で座敷の客を立せたる
肥後の相場を又聞てこい 芭蕉
の句があるように、肥後の米相場は全国の米相場を判断する意味で重要だったのだろう。
前句の革袴を履いて馬で長いこと走ってきた武士とする。おそらく将軍家の使いであろう。肥後の穂増を買い付けに来た。
二十九句目。
秋入初る肥後の隈本
幾日路も苫で月見る役者舩 珍碩
江戸や上方では常設の劇場があったが、地方では芝居というと田舎わたらいする旅芸人の集団によって担われていた。
肥後熊本で興行ということになると、船に乗って何日もかけて移動したのだろう。
三十句目。
幾日路も苫で月見る役者舩
寸布子ひとつ夜寒也けり 正秀
布子(ぬのこ)は木綿の綿入れ。防寒着ではあるが一枚だけでは寒い。
二裏。
三十一句目。
寸布子ひとつ夜寒也けり
沢山に兀め兀めと吃られて 珍碩
「沢山に」は『芭蕉七部集』の中村注に「えらそうに」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の、
「③ 必要以上に多すぎること。転じて、大事にしないこと。また、そのさま。粗略。ぞんざい。
※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「竹の子を根引にしてたくさんにもてあつかう事、惜しき事ぢゃ」
の意味であろう。
「兀め」は「はげめ」、「吃られて」は「しかられて」。
丁稚だか下男だか、虐げられ、木綿の綿入れ一つで夜を過ごす。
三十二句目
沢山に兀め兀めと吃られて
呼ありけども猫は帰らず 正秀
猫嫌いの夫がこれでもかと𠮟りつけて猫を追い出してしまったのだろう。嵐雪か。前句を「禿め」と取り成す。
三十三句目
呼ありけども猫は帰らず
子規御小人町の雨あがり 珍碩
ウィキペディアの「五役」のところに、
「五役(ごやく)は、江戸幕府における職制。御駕籠之者(おかごのもの)・御中間(おちゅうげん)・御小人(おこびと)・黒鍬之者(くろくわのもの)・御掃除之者(おそうじのもの)の5つの総称である。」
とあり、御小人(おこびと)については、
「江戸城中の女中や奥役人が出入りする際の供奉や玄関・中之口などの警備、御使や物品の運搬などを職務とした者。単に小人とも呼ばれる。15俵1人扶持だが、三河以来の家柄18家の場合は35俵2人扶持や32俵1人扶持であった。総数は500名ほど[9]。将軍の装束御成りの際には、10数人が選ばれ、2人交替で御馬の口取りも行った。熨斗目に白張を着用し烏帽子を冠って、将軍の手筒や蓑箱などを持ち、亀井坊1人・馬験(うまじるし)5人・長刀7人・小道具20人・賄6人・草履方10人・日傘持1人が随行した。」
とある。
この御小人(おこびと)の住んでいる町で、どこの城下町にもあったのだろう。江戸だと本郷に御小人町があった。荒くれ者の多そうな町だ。
ホトトギスは雨あがりに鳴いても猫は帰ってこない。
三十四句目
子規御小人町の雨あがり
やしほの楓木の芽萌立 正秀
「やしほ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「幾度も染め汁に浸して、よく染めること。また、その染めた物。
出典万葉集 二六二三
「紅(くれなゐ)のやしほの衣」
[訳] 紅色のよく染めた衣服。◆「や」は多い意、「しほ」は布を染め汁に浸す度数を表す接尾語。上代語。」
とある。
ホトトギスも鳴く晩春、秋に真っ赤に染まる楓も今が春雨に芽吹く頃。
三十五句目
やしほの楓木の芽萌立
散花に雪踏挽づる音ありて 珍碩
雪駄はウィキペディアに、
「諸説あるが、千利休が水を打った露地で履くためや、下駄では積雪時に歯の間に雪が詰まるため考案したとも、利休と交流のあった茶人丿貫の意匠によるものともいわれている。主に茶人や風流人が用いるものとされた。」
とある。
花に楓と風流人の庭であろう。
挙句
散花に雪踏挽づる音ありて
北野の馬場にもゆるかげろふ 正秀
北野天満宮の近くにあった右近の馬場で『伊勢物語』の第九十九段の舞台になっている。雪駄の音に、
見ずもあらず見もせぬ人の恋しくは
あやなく今日や眺め暮さん
の歌を詠んだ在原業平の幻を見て、一巻は目出度く終わる。
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