前にも書いたが、「止まない雨はない」と言うが止まない雨があったらどうすべきか、既にアニメ映画「天気の子」がそれを問いかけていた。
日本人は一過性の災害に慣れてしまって、終わりの見えない戦いが相変わらず苦手だ。
戦争だって関ケ原の戦いは半日で終わり、太平洋戦争だってたったの四年だ。世界には百年戦争もあれば、中東は何千年も終わりのない戦いが続いている。アメリカだってつい最近バイデンさんがアフガニスタンから撤退して最も長い戦争を終わらせると言ってたが、(実際はトランプさんが五月撤退を決めていたのを九月に延期した)、本当に一番長い戦争、朝鮮戦争はまだ終わってない。(これもトランプさんは終わらせようと必死に動いたが、バイデンさんは何をやっているのだか。)
今週が正念場だと言うと、今週さえ乗り切ればなんとかなると思ってしまうが、コロナはそういうものではない。日々是正念場でそれがまだあと何年も続くかもしれないんだ。これだけ世界中に広がってしまうと、インフルエンザがそうだったように次々と世界のどこかで変異株が誕生し、毎年のようにワクチンを打たなければいけなくなる可能性も大きい。
スポーツも芸術も今まで通りの興行形態では成り立たないというなら、変えていかなくてはならない。コロナが止むまで何年でも待てるならそれでもいいが。
とにかく今は「いつまで頑張れば」というゴールなんかない。止まない雨があるなら、雨の中で生きてゆく方法を考えなくてはならない。
あと、前(2019年9月1日)に千春編『武蔵曲』の、
末の五器頭巾に帯て夕月夜
猫口ばしる荻のさはさは 素堂
の句を紹介したが、今改めて「錦どる」の巻を読み進めていて思ったんだが、「鎧の櫃に餅荷ひける」が打越になるので、お椀(五器)を山伏の「頭襟(ときん)」に見立てるというのは、打越の鎧の櫃に応じるもので、素堂の句にまでは引きずらない。
ここではあくまでお椀を持った山伏が夕月夜に外に出てゆくと、猫が思わず声を上げて荻の向こうからさわさわとやってくる、という句で、一見厳つい山伏さんも実は猫に餌をやるやさしいおじさんだったという句になる。
それでは『三冊子』の続き。
「師の曰、俳諧之連哥といふは、よく付といふ字意也。心敬僧都の私語にも、前句に心のかよはざるは、たゞむなしき人の、いつくしくさうはきてならびゐたるなるべしと、ある俳書ニ有。又、付の事は、千變万化すといへども、せんずる所只俤と思ひなし、景氣此三に究り侍るよし、師のいへるとも有。又、ある時師の詞に、躰はさまざま有といへども、世上二三躰には見へ侍る也。物にも書留んや。此後こゝに究め侍るやうに人こゝに留らんか。しかれば書留るにもいたらずとて、事やみ侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.122)
この「ある俳書」は許六の『宇陀法師』だと『去来抄・三冊子・旅寝論』の注にある。
『去来抄』にも、
「支考曰、附句は附るもの也。今の俳諧不付句多し。先師曰、句に一句も附ざるはなし。
去来曰、附句は附ざれば附句に非ず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.74)
とある。
この「付く」が何を意味するかについては、本来は上句と下句を合わせて一首の歌に仕上げることを言ったのだが、時代が下るにつれてないがしろになっていった。だからある者は「付いている」と言うが、ある者は「付いてない」というような状態になっている。
また、「付かず離れず」は俳諧から出た言葉なのかどうかは疑わしい。「挙句の果て」が本来の連歌から離れて、俗語として独自の意味を持っているように、元の意味と離れて使われている言葉も多い。連歌も俳諧も基本的には「付く」ものであり「付かず離れず」は間違い。
特に近代では正岡子規以降技術を軽視する傾向が強く、付け筋などというものも無視され、廃れてしまったから、現代連句はただの連想ゲームで、それを正当化するためのあらゆる理論が立てられている。
「付の事は、千變万化すといへども、せんずる所只俤と思ひなし」というのは、上句下句を合わせて一つの意味なり姿なりが生じる事が基本で、狭義の俤付けではない。
たとえば、
抱込で松山廣き有明に
あふ人ごとの魚くさきなり 芭蕉
の句であれば、前句の海辺の夜明け前の風景にたくさんの魚臭い人がいるというところで、活気あふれる漁港の姿が浮かんでくる。しかも、それを魚臭きと感じる所に、旅人の見た漁港だという所までわかる。これは広義の意味で漁村を旅する人の俤(たとえば在原行平のような)と言っていいのではないかと思う。
歌というのは必ず誰かが詠むものなのだから、歌として成立するということは、それを詠む人というのが必ず面影として浮かんでくる。
杖一本を道の腋ざし
野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉
の句であれば、杖だけで寸鉄を帯びずに旅する人は旅の僧で、それが烏が群れ飛ぶさまに死期の近いのを感じ涙ぐむとなれば、この歌の主は老いた旅僧(たとえば晩年の西行法師のような)ということになる。
前句と付け句合わせて、最終的にはそれを詠む人物が思い浮かぶ。「せんずる所只俤」というのはそういうことだと思う。
狭義の俤付けは、誰なのか特定できる付け方で、
草庵に暫く居ては打やぶり
いのち嬉き撰集のさた 去来
のような「いのち」に「いのちなりけり」の歌、「撰集」で勅撰集の歌人というヒントのあるような付け方をいう。
「只俤と思ひなし、景氣此三に究り侍る」というのは、俤に加えて、景と気が大事ということで、「此三」とあるから、「景気」で一つではない。景は物、気は心。景色が相通うというのは、必ずしも一枚の絵にするということではない。前句を過去として現在の景色を付けたり、前句を現在として未来の景色を付けたり、違えて付けたり、あるいは対句のように二つの景を並べる付け方もある。
くろみて高き樫木の森
咲花に小き門を出つ入つ 芭蕉
の句は樫木の森に隠棲する隠者が桜の花が咲いたといっては門を出入りするということで、樫の木の森と桜の花は一つの絵に収まるわけではない。
ぽんとぬけたる池の蓮の実
咲花にかき出す橡のかたぶきて 芭蕉
の句は過去に花見のために設けた縁台も今は傾いて、今は池の蓮の実がポンと抜けるという、やはり蓮池の辺で暮らす僧の俤であろう。一つの絵としては成立しない。
ただ、同じ人物の見た景であり、同じ人物の心が想像できるので、一つの俤になる。
ちなみにこれらの句を和歌の形に改めるなら、
抱込で松山廣き有明にあふ人ごとの魚くさきなり
野がらすのそれにも袖のぬらされて杖一本を道の腋ざし
草庵に暫く居ては打やぶりいのち嬉き撰集のさた
咲花に小き門を出つ入つくろみて高き樫木の森
咲花にかき出す橡のかたぶきてぽんとぬけたる池の蓮の実
ときちんと付いているのがわかる。
こういうことを言うと一生懸命付いてない句を探し出して、これが証拠だと言うような御仁がいそうだが、多分取成しか本説の句だと思う。
「ある時師の詞に、躰はさまざま有といへども、世上二三躰には見へ侍る也。物にも書留んや。」というのは、付け筋はその場その場で無数にあるもので、それを世間は大雑把に二三の体にまとめているだけだということ。付け筋を極めようと思えばこんな大雑把な分類のこだわってはいけないので、芭蕉はあえてそれを土芳に書き残すようなことはしなかった。
芭蕉の場合、相手に合わせて教え方を変えるので、これはあくまで土芳に対してはということだろう。
支考の場合は天才的に次々と自分で新しい付け筋を発見する能力があるから、そういう人には、自分の過去に見つけた付け筋を教えても大丈夫だと思ったのかもしれない。土芳の場合は下手に教えるとそればっかり馬鹿の一つ覚えになりそうなので教えなかったか。
基本的には上句下句を合わせて歌を完成させたときに、一人の人物の俤が浮かぶように詠めというのが、土芳への教え方だったのだろう。
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