2021年4月23日金曜日

 尾脇秀和さんの『氏名の誕生─江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(二〇二一、ちくま新書)を読み終えた。最後の方に女性の名前のことがあったが、大体今まで思っていたことが裏付けられた。つまり女性は苗字で呼ばれることはなかったし、苗字を意識することもなかった。男も日常生活の中で苗字はほとんど意識されなかったのだから、これは当然と言えば当然なのだろう。
 今の氏名というのは近代社会で国家が戸籍を管理し、徴税や徴兵などの便宜を図るために、名前がいくつもあっては困るし度々変わられても困るというのが理由だっとというのはよくわかる。
 多分日本だけではなく西洋でも近代化の過程で名前の変化はあったのではないかと思う。
 夫婦別姓の問題について言うなら、今の議論のほとんどは男女平等というイデオロギーの観点で論じられている。実際には、選択制にしても「いいんじゃない」くらいのスタンスの人がほとんどだと思う。そういう主義の人はすればいいし、自分はやんない、という人が多いと思う。選択制なら賛成だけど別姓を強制すると言ったら反発も出ると思う。
 日本人は基本的に生まれた家の名字にそれほど執着しない。ミュージシャンや作家の名前を見ても、最近は苗字を持つ人が少ない。とくにビジュアル系では苗字がある方が少数派ではないか。たとえ芸名であっても、一昔前までは一応「氏名」の体裁を具えている人が多かったが、今はいろんな分野で脱苗字の流れができている。
 夫婦別性も一つの解決策だが、実生活に於いて苗字をなくすというのも一つの選択肢ではないかと思う。

 それでは『三冊子』の続き。

  「能登の七尾の冬は住うき
  魚の骨しはぶる迄の老を見て
 前句の所に位を見込、さもあるべきと思ひなして人の躰を付たる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130)

 『猿蓑』所収、元禄三年六月の凡兆宅での芭蕉・去来・凡兆による三吟歌仙興行、「市中は」の巻十一句目。
 「しはぶる」は「しゃぶる」ということ。昔の人は顎が丈夫で、魚の骨などバリバリと噛み砕き、今のように魚の骨を丁寧に取って食べるようなことはしなかった。まして漁村ならなおさらであろう。魚の骨が噛めなくなるのは歯のない老人くらいで、「魚の骨をしゃぶる」というのは、すっかり歯の抜けてしまったよぼよぼの老人ということになる。
 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には「魚の骨は前句の七尾のしをり也。老を見ては冬の住うきといふよりの響也。しはぶるとは、俗にしゃぶるつといへる事也と先輩いへり。只一句のうへに極老と見へる様に句作りたるにて、別に子細なし。」とある。
 これには「響き」とあるが、匂い付けを明確に分類することはできないので、能登の漁師の老人の位で付けたと言っても間違いではない。

  「中々に土間にすはれバ蚤もなし
  わが名は里のなぶり物也
 同じ付樣也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130)

 珍碩編『ひさご』所収の「木のもとに」の巻二十八句目。
 前句の「蚤もなし」は本人の言葉で「蚤すら寄ってこない」という村八分になった男の位と見て、「わが名は里のなぶり物也」と開き直る。嫌われ者でも一本筋の通った人物だろう。なかなか力強い一句だ。

  「抱込て松山廣き有明に
  あふ人毎に魚くさきなり
 同じ付也。漁村あるべき地と見込、その所をいはず、人の躰に思ひなして顯す也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130~131)

 元禄七年閏五月下旬、芭蕉の京都滞在中、落柿舎に大阪の之道を迎えての七吟歌仙興行、「牛ながす」の巻の十二句目。
 「抱込て」は入り江で、松山がある広いひらけた土地といえば賑やかな漁港が想像できる。その所の景を付けるのではなく、そこにやってきた旅人の位で、その漁村の感想を付ける。

  「四五人通る僧長閑也
  薪過町の子共の稽古能
 前句の外通る躰以て付る也。前句の位思ひなして、奈良の事にはつけなし侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

 元禄七年の「鶯に」の巻の三十五句目。二月に去来と浪化で十七句目まで巻いたものに、夏に芭蕉が京に上ってきた時に続きを巻いたものと思われる。
 僧が出たところで、芭蕉はこれを奈良の景色に転じる。これも「僧」に対して「奈良」と言葉を出してしまえば単なる物付けだが、あくまでもそれを表に出さず、匂いだけで付けるところに芭蕉の技術がある。
 「薪能(たきぎのう)」は今では屋外での公演を一般的に指すが、本来は二月初旬に奈良興福寺南大門で行なわれる能のことだった。それゆえ春の季語になる。ただ、芭蕉の句はこの薪能そのものを詠むのではなく、薪能を見て刺激されたのか、奈良の子供たちが能楽師に憧れて能の稽古に励んでいる様を付ける。

  「頃日の上下の衆の戻らるゝ
  腰に杖さす宿の氣違ひ
 前句を氣違ひ狂ひなす詞と取なして付たる也。衆の字ぬからず聞ゆ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

 元禄七年閏五月下旬、「牛ながす」の巻の二十三句目。
  ここで芭蕉が言う「気ちがい」は、多分自分がいっぱしの武将であるかのような誇大妄想を持った男だろう。多分この宿場町やその周辺の人ならだれもが知る有名人で、「ああ、またやっている」という反応なのだろう。
 腰に刀の代わりの杖を差して、江戸や上方に行っていた衆が戻られたと、主人に報告する。
 「このごろの上下の衆のもどらるる」(かく云ふ)腰に杖さす宿の気ちがひという風につながる。「衆」の一字がよく生かされている。これも一種の位付けになる。
 「気ちがい」と「気のやまい」は江戸時代になってから盛んに用いられるようになった言葉で、「気」という朱子学の概念に基づく言葉だ。
 気というと今日では気孔術か何かの何か超自然的なパワーを表すが、それは清の時代になってからのことで、朱子学では「理(性)」に対して物理的な現象界一般を表す。「もの狂い」が魂の問題で、いわば、その人の生まれもった性向によって、何かに取り付かれたように一つの物事に固執するような、いわば性格異常に近いのに対し、「気」は形而下の、今でいう器質性のものを表す。
 「気ちがい」は今でいう精神病に相当し、「気のやまい」は神経症に相当する。ただし、俳諧では必ずしも厳密に区別されているわけではなく、近代でも「釣りキチ」のように用いられていたように、風狂を「気違い」と呼ぶことも十分考えられる。
 延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻七十五句目の、

   秋風起て出るより棒
 気違を月のさそへば忽に      桃青

の気違いは今でいう精神病者ではなく、謡曲『三井寺』に出てくるような「物狂ひ」であろう。ただ、現実に勝手に鐘をつこうとしたら、棒で取り押さえられる。

  「御局の里下りしては涙ぐみ
  ぬつた筥より物の出し入
 さもありつべき事を、直に事もなく付たる句なり。思ひ亂るゝに其わざ、さもあるべきことをいへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

 これは元禄七年閏五月下旬の「葉がくれを」の巻の三十四句目。
 御局は宮中の局(つぼね)を与えられるほどの身分の高い女官で、それが里に帰されたとあると、都での華やかの日々を思い出し、宮中にいた頃から使っている漆塗りの箱のものを何度も取り出しては涙する。御局の気持ちになっての付けという意味で、これも広義の俤付けに含まれる。

  「隣へもしらさず嫁をつれて來て
  屏風の陰に見ゆる菓子盆
 同じ付也。盆の目に立、味ふ事もなくして付たる句也。心の付なし新みあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131~132)

 元禄七年春の「むめがかに」の巻の挙句で、『炭俵』所収。
 「屏風」があるということで、前句を貧しい家ではなく、裕福な家に取り成す。挙句(あげく)ということで、どういう事情でとか重い話題は避け、ただ、菓子盆が隠して置いてあるのを見て嫁が来たのが知れるというだけの句で、あくまで軽く流しているが、花嫁に菓子盆とあくまで目出度く終わる。

  「入込に諏訪の桶湯の夕まぐれ
  中にもせいの高い山伏
 前句にはまりて付たる句也。其中の事を目に立ていひたる句なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132)

 『ひさご』所収の「木のもとに」の巻十句目。
 これは芭蕉の得意とするあるあるネタで、こういう山の中の温泉にいくと必ずいそうな人をすかさず出してくる。

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