コロナの方はどうやら大阪の方はピークアウトしそうだ。東京はまだ増加のペースが収まらない。長い戦いになりそうだが頑張ろう。
それではまだ春は続くので、春の俳諧を読んでみようと思う。
今回は元禄三年刊珍碩編『ひさご』に収録された「いろいろの」の巻。芭蕉は脇のみの参加で、あと所の懐紙は珍碩と路通の両吟、二の懐紙は荷兮と越人の両吟になっている。
発句は、
いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
「むつかし」は煩わしい、面倒くさいというような意味で、今でいう難しいではない。
まあ、春の草と言ってもいろいろなものがあるが、面倒なのでとりあえず春の草と言っておく。細かいことにこだわるな、春が来ていろいろな草が萌え出てそれだけで十分じゃないか、そういう句だ。
脇は芭蕉が付ける。
いろいろの名もむつかしや春の草
うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
「うたれて」は「畑打つ」という言葉があるように、耕すので春の草が打たれてという意味。蝶が打たれるのではない。春の草が打たれて、蝶は叩き起こされて夢から醒めたように飛び回る。
『三冊子』を読んだ時にも書いたが、この句は『三冊子』や享保版の『ひさご』では、
いろいろの名もまぎらはし春の草
うたれて蝶の目をさましぬる 芭蕉
の形になっている。そのため、土芳は、
「此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり亂るゝ様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)
と言っている。
「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、そこに止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったと思われる。
第三。
うたれて蝶の夢はさめぬる
蝙蝠ののどかにつらをさし出て 路通
日本で一番身近なコウモリはアブラコウモリで、昆虫食だから、蝶を襲うのではないにせよ、空中の小さな虫を捕えて食うため、虫の多い草の上などを飛行する。夕暮れ時であろう。
四句目。
蝙蝠ののどかにつらをさし出て
駕篭のとをらぬ峠越たり 路通
駕篭の通らない峠は主要な街道から外れた小道で、人の姿も稀だから、コウモリも長閑に飛び回る。旅体に転じる。
五句目。
駕篭のとをらぬ峠越たり
紫蘇の実をかますに入るる夕まぐれ 珍碩
紫蘇の実は穂紫蘇とも呼ばれている。秋に穂が出る。青いうちに収穫する。
「かます」は叺という字を書く。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (古く「蒲(かま)」の葉で編み作ったところから「蒲簀(かます)」の意という)
① わらむしろを二つに折り、左右両端を縄で綴った袋。穀物、菜、粉などを入れるのに用いる。かますだわら。かまけ。
※書紀(720)大化五年三月(北野本訓)「絹四匹・布二十端(はたちはし)・綿二褁(ふたカマス)賜ふ」
② (①の形をしているところからいう) 油紙、皮などで作った小物入れの袋。多く、タバコ入れに用いる。
※洒落本・伊賀越増補合羽之龍(1779)仲町梅音「くゎい中のかますよりあいせんのみゑへいを出し見れば」
ここでは①の方。
駕篭の通らない峠道を越えた向こう側で、近隣の農家が穂紫蘇を収穫する。
六句目。
紫蘇の実をかますに入るる夕まぐれ
親子ならびて月に物くふ 珍碩
紫蘇の実を収穫して持ち帰り、親子並んで田舎ながらもお月見をする。
初裏。
七句目。
親子ならびて月に物くふ
秋の色宮ものぞかせ給ひけり 路通
秋の紅葉も深まり、葉の落ちたところからは神社の姿も見えてくる。
八句目。
秋の色宮ものぞかせ給ひけり
こそぐられてはわらふ俤 路通
「こそぐる」は「くすぐる」。uとoの交替。
前句の「宮」を宮中とし、御簾の向こうに高貴な人の笑い声が聞こえてくる。
九句目。
こそぐられてはわらふ俤
うつり香の羽織を首にひきまきて 珍碩
後朝とする。羽織に染み付いた移り香が他の着物に付かないように首に巻いて、男が帰って行く。匂いでどこに通ってたかバレたりするからね。
十句目
うつり香の羽織を首にひきまきて
小六うたひし市のかへるさ 珍碩
市場で汗をかいたか、羽織を首に引き巻いて帰る。市場でもいろんな匂いが染み付く。
小六は小六節でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「江戸初期に流行した小唄の曲名。慶長(一五九六‐一六一五)ごろの馬追いで小唄の名人だった関東小六の持っていた竹の杖を歌ったもの。踊り歌などに用いられた。歌詞と楽譜が「糸竹初心集」にある。
※糸竹初心集(1664)中「ころくぶし。ころくついたる竹のおをつゑころく。もとは尺八、なかはああ笛ころく」
とある。
小唄にはいろいろあって、延宝四年の「此梅に」六十九句目に、
時雨ふり置むかし浄瑠璃
おもくれたらうさいかたばち山端に 信章
とあり、弄斎節と片撥も小唄の一種で、「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」
「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」
とある。また、寛文の頃に成立した『糸竹初心集』の俗謡が短い歌詞の、のちの小唄の原型のようなものだったとされている。ネット上の林謙三さんの『江戸初期俗謡の復原の試み ─特に糸竹初心集の小唄について』に詳しい。ここでの小六はこの俗謡の中の一つのようだ。
天和二年の「錦どる」の巻六十八句目には、
遁世のよ所に妻子をのぞき見て
つぎ哥耳にのこるよし原 峡水
とあり、この「つぎ哥」は次節(つぎぶし)のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「つきぶし」とも) 元祿(一六八八━一七〇四)の頃、江戸新吉原で流行した小唄。つぎうた。
※浮世草子・色里三所世帯(1688)下「女郎は是に気をうつさず色三味線引かけてつきぶしの小歌に日をかたぶけ」
※随筆・用捨箱(1841)中「予がおぼえし二歌を混じて、次節にも歌ひしか。次節又次歌といふ」
とある。これも小唄の一種だったようだ。
なお、今日知られている小唄は長唄・端唄と同様、元禄の浄瑠璃から派生したもので、この頃はまだなかった。
十一句目。
小六うたひし市のかへるさ
鮠釣のちいさく見ゆる川の端 路通
鮠は鯉科中型のもので、オイカワ、ウグイ、カワムツなどが含まれる。
市の帰りの景色で、河原で鮠を釣る人が遠くに見える。
十二句目。
鮠釣のちいさく見ゆる川の端
念仏申ておがむみづがき 路通
「みづがき」は神社の垣根。瑞垣。
釣りは殺生になるので、念仏を唱える。神仏習合の時代なので神社で念仏は別に珍しいことではない。
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