2021年4月24日土曜日

 原理主義だとか過激な左翼思想だとか、何が間違っているかというと、本来は人々がみんな幸せになるために作られた思想だったのに、いつの間にかこうした大衆を敵に回して、自分の権力のためにだけで戦ってしまうことだ。
 宗教も本来は衆生を救済するためのものなのに、いつの間にか衆生を敵視している。
 外に出ればいつもと変わらない平和な世界があり、くだらない雑談を交わしながらも人はそれぞれ生きるための自分の場所を確保する生存の取引を繰り返す。その雑然とした世界。それを守るために戦ってきたんじゃないのか。何でそれを「敵」だと思うのだろうか。
 敵を間違えるなということは同時に、守るべきものを間違えるなということではないか。
 世の中には生まれてすぐ死んでゆく赤ん坊もいる。平等だというならすべての人は生まれてすぐ死ななくてはならないのだろうか。そんなことは馬鹿げている。平等は取引であって理念ではない。平等は生存の取引におけるフェアトレードの実現だと認識している。
 人間の幸福はそもそも比較することができない。なぜなら自分の幸せは自分でわかるが、他人が幸せかどうかは直接体験することができず、推測する以外にないからだ。だから誰もが幸せな社会は、誰もが自分自身の幸せを感じることができる世界で、それぞれの幸福を比較することができない以上、そこに厳密な意味での平等は存在しない。
 平等は幸せになるための個々の生存の取引において、双方が納得できたときに、これで共に幸せだと感じる、それだけのものにすぎない。
 そういうわけで鈴呂屋はこの糞ったれの世界が好きだし愛しいし守りたい。鈴呂屋は平和に賛成します。
 あと、鈴呂屋書庫に天和二年の「花にうき世」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは『三冊子』の続き。

  「人聲の沖には何を呼やらん
  鼠は舟をきしるあかつき
 この句、はじめは、須磨の鼠の舟きしるをと、といひ出られ侍るに、前句の聲といふ字差合て付かへられし句也。暁の字骨折あり。人のいはく、須磨の鼠新きものに侍れども、舟きしるをとゝいひては、下の七大におくれたるか、といへり、師聞て、宜といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132)

 「人のいはく」は許六のこと。許六の『俳諧問答』に、

 「一、一とせ江戸にて、何某が歳旦開とて、翁をまねきたる事あり。
 予が宅ニ四五日逗留の後にて侍る。其日雪ふりて、暮方参られたり。其俳諧に、
 人声の沖には何を呼やらん     桃隣
 鼠は舟をきしる暁         翁
 予其後芭蕉庵へ参とぶらひける時、此句かたり出給へり。
 予が云、扨々此暁の字、ありがたき一字なるべし。あだにきかんハ無念の次第也。動かざる事大山のごとしといへば、師起あがりて云、此暁の一字聞屆侍りて、愚老がまんぞくかぎりなし。此句初ハ、
 須磨の鼠の舟きしる音
と案じける時、前句ニ声の字有て、音の字ならず、つくりかへたり。すまの鼠とまでハ気を廻らし侍れ共、一句連続せざるといへり。
 予が云、これ須磨の鼠より遙に勝れり。勿論須磨の鼠も新敷おぼえ侍れ共、『舟きしる音』といふ下の七字おくれたり。上の七字に首尾調はず。暁の一字のつよき事、たとへ侍るものなしといへば、師もうれしがりて、これ程にききてくれる人なし。只予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる顔のミにて、善悪の差別もなく、鮒の泥に酔たるがごとし。
 其夜此句したる時、一座の者共ニ、遅参の罪ありといへ共、此句にて腹をゐせよと、自慢せしとのたまひ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.174~176)

とある。
 この歳旦開の俳諧は今のところまだ発見されてないようだ。許六の記したこの二句だけが分かっている。おそらく元禄六年の春、許六が参加して満尾出来なかった巻があったのだろう。『俳諧問答』に、

 「予、俳諧、師とする事、全篇慥ニ成就する巻二哥仙、半分ニミてざる巻二ツ、以上四巻也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94)

とある。

   人声の沖には何を呼やらん
 鼠は舟をきしる暁

 『源氏物語』須磨巻で源氏の君が七弦琴を弾いて歌う場面で、「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ(沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます)」、という下りがある。
 芭蕉はこの場面を思いついて、最初は、

   人声の沖には何を呼やらん
 須磨の鼠の舟きしる音

としたのだろう。源氏須磨巻を俤としつつも、人声を船に鼠が出たせいだとする。
 このとき「音」と前句の「声」と被っているのに気付き、須磨を出すのをやめて「鼠は舟をきしる暁」とする。源氏物語は消えて、船に鼠が出て騒ぐ様子に暁の景を添える句になる。
 芭蕉さんも苦肉の策で出した「暁」を褒められて、満更でもなかっただろう。

  「榎の木からしの豆からを吹
  寒き爐に住持はひとり柿むきて
 此句、はじめは、住持さびしく、となして後、淋の字除かれし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132)

 この句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)に『稿本野晒紀行』の句として、

   榎木の風の豆がらをふく
 寒き炉に住持は独柿むきて     芭蕉

の形で収録されている。貞享二年の『野ざらし紀行』の旅の途中の句と思われる。『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』(中村俊定校注、一九七一、岩波文庫)の天理本『野ざらし紀行』にも見られる。
 エノキはウィキペディアに、

 「葉と同時期(4月頃)に、葉の根元に小さな花を咲かせる。秋には花の後ろに、直径5-6mmの球形の果実をつける。熟すと橙褐色になり、食べられる。味は甘い。」

とある。こうした木の実は菓子として食べられていたのだろう。木枯しの季節になると榎の実の季節も終わり、鳥の食べた豆柄を木枯らしが吹き飛ばして行く頃に、住持(住職に同じ)が独淋しく囲炉裏端で柿を剥いている。
 これは次の句の展開を考えて、あまり句の情を限定しない方がいいという判断なのだろう。「独」でも「独淋しく」を十分連想できる。

  「桐の木高く月さゆる也
  門しめてだまつて寐たる面白さ
 この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出來しあさ茅生といふ句によれり、老師の思ふ所に非ずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132~133)

 これは『炭俵』の「むめがかに」の巻二十五句目。
 冬の寒い季節の月だから酒宴を開くわけでもないし、管弦のあそびに興じるわけでもない。門を閉めてただ一人黙って寝るのもまた一興かと床につくものの、それでも眠れず夜中になってしまう。「高く」は桐の木だけでなく「月」にも掛かるとすれば、天心にある月は真夜中の月だ。本当に寝てしまったんなら月を見ることもない。
 前句の「高く」「さゆる」の詞から、高い志を持ちながらも世に受け入れられず、冷えさびた心を持つ隠士の匂いを読み取り、その隠士の位で、「門をしめて黙って寝る」と付く。
 門を閉めて、一人涙する隠士に、冬枯れの桐の木も高ければ、月はそれよりはるかに高く、冷え冷えとしている。高き理想を持ちながら、決してそれを手にすることの出来なかった我が身に涙するのだろう。
 前句の語句をそのものの景色の意味にではなく、それに実景でもありながら同時に比喩でもあるようなニュアンスを読み取り、そこから浮かび上がる人物の位で、そうした人物のいかにもありそうなことを付ける。匂い付けの一つの高度な形であり、匂い付けの手法の一つの完成であり、到達点といってもいいかもしれない。
 「泣事のひそかに出來しあさ茅生といふ句」は同じ『炭俵』の「空豆の花」の二十一句目で、

   はっち坊主を上へあがらす
 泣事のひそかに出来し浅ぢふに   芭蕉

の句をいう。
 前句の「はっち坊主」は鉢坊主のことで、托鉢に来た乞食坊主のこと。
 田舎の荒れ果てた家に隠棲している身で、誰か亡くなったのであろう。おおっぴらに葬儀も出来ず、たまたまやってきた托鉢僧にお経を上げてもらう。
 托鉢僧をわざわざ家に上がらせるというところから密葬として、それをそれと言わずに匂わせる手法は、確かに匂い付けの完成された姿ではある。
 おそらく芭蕉が土芳に言いたかったのは、高士の「俤」で付けるということだったのだと思う。

  「もらぬほどけふは時雨よ草のやね
   火をうつ音に冬のうぐひす
  一年の仕事は爰におさまりて
 此第三は、みのにての句也。十餘句計吟じかへてのち、是に決せられしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.133)

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)は元禄八年刊如行編の『後の旅』の形で収録していて、そこには、

   元禄四年の初冬、茅屋に芭蕉翁をまねきて
 もらぬほどけふは時雨よ草の屋   斜嶺
   火をうつ聲にふゆのうぐひす  如行
 一年の仕事は麦におさまりて    芭蕉

の形になっている。
 十句以上もああでもないこうでもないとやるのは珍しいことだったので門人の記憶に残ったのだろう。
 理由はよくわからない。
 発句は亭主の挨拶で、こんな粗末なところですから時雨が漏らないといいですね、という謙遜した句で、実際にはそれなりの家だったのだろう。
 脇は、時雨の中、寒いので火を起こしましょう、そうすると冬の鶯の声も聞こえてきますと。これは寓意で、俳諧興行を始めれば芭蕉さんの鶯の一声が聞けますよ、といったところか。何か芭蕉さんにプレッシャーをかけているようにも聞こえる。
 付け筋はいくつか考えられる。まずは冬の鶯に火を打つから山奥の景で付ける、あるいは山奥の隠士の情で付ける、しかしこの展開では発句の「草の屋」から離れられない。
 いっそのこと違えて付けるか、前句を何か別の意味に取り成せないか、そんなことも考えたかもしれない。とりあえず「草の屋」から離れるというところから、普通の農家の生活を思い浮かべ、農夫の俤で農夫の立場だったらどうかと考えた時、稲刈りは終わり麦を蒔き、これで一年の仕事は終り、という所に至ったのではないかと思う。

  「市人にいで是うらん雪の笠
   酒の戸たゝく鞭のかれ梅
  朝がほに先だつ母衣を引づりて
 此第三は門人杜國が句也。此第三せんと人々さまざまいひ出侍るに、師のいはく、此第三の附かたあまたあるべからず。鞭にて酒屋をたゝくといふものは、風狂の詩人ならずばさもあるまじ。枯梅の風流に思ひ入ては、武者の外に此第三あるべからずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.133)

 これは元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

   抱月亭
 市人にいで是うらん雪の笠     翁
   酒の戸たゝく鞭のかれ梅    抱月
  是は貞享のむかし抱月亭の雪見なり
  おのおの此第三すべきよしにて幾たびも吟じ
  あげたるに阿叟も轉吟して此第三の附方
  あまたあるべからずと申されしに杜國もそこに
  ありて下官もさる事におもひ侍るとて、
 朝かほに先だつ母衣を引づりて   杜國
  と申侍しとや。されば鞭にて酒屋をたゝく
  といへるものは風狂の詩人ならばさも有べし
  枯梅の風流に思ひ入らバ武者の外に此第三
  有べからず。しからば此一座の一興はなつかし
  き㕝かなと今さらにおもはるゝ也

とある。「下官」は「やつがれ」と読む。一人称。アニメの「文豪ストレイドッグス」の芥川龍之介がこの一人称を用いているので知っている人も多いと思う。
 「母衣」は「ほろ」でウィキペディアに、

 「母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く。」

とある。NHK大河ドラマ『真田丸』で真田信繁が秀吉に仕えているときに、大きな黄色い母衣を背負っていたのは見た人もいると思う。
 「㕝」は「こと」と読む。事の異字体。
 「此第三の附かたあまたあるべからず」は「他にあるべからず」の意味。
 問題なのは脇の「鞭のかれ梅」で、枯梅を鞭にして酒屋の戸を叩くというのは、発句に付けば雪の笠を売っている怪しげな風狂の徒だが、第三はその趣向を離れなくてはならな。そこでみんな考え込んでしまったのだろう。
 他に誰が枯梅の鞭で酒屋の戸を叩いたりするだろうか、というところだ、芭蕉は答えが出たのだろう。「此第三の附方あまたあるべからず」、つまり答えは一つしかないと確信した。
 答えは一つという所で杜国の迷いが解けたのだろう。この第三を言い出す。

   酒の戸たゝく鞭のかれ梅
 朝かほに先だつ母衣を引づりて   杜國

 母衣(ほろ)を背負っているという所で武者になる。武者で馬に乗っていれば鞭も持っている。ここで前句を「鞭のかれ梅」を枯梅の枝の鞭ではなく、枯梅に惹かれて酒の戸を鞭で叩くと取り成す。「枯梅の風流に思ひ入らバ」というのはそういう意味だ。
 いち早くこの答えを導いた芭蕉も凄いが、それにすぐに答えた杜国もなかなかのものだった。

 「徒歩ならバ杖つき坂を落馬哉
   角のとがらぬ牛もあるもの
 此句は門人土芳が句也。先師此句を風與仕たり。季なし。皆脇して見るべしとあり。おのおのさまざまつけて見侍れども、こゝろにのらずしてふと此句を見せ侍れば、よろしとてその儘取て付られ侍る。師の心味ふべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.134)

 このことも元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

  そのゝちいがの人々に此句の脇して
  見るべきよし申されしを
 角のとがらぬ牛もあるもの     土芳

とある。芭蕉の『笈の小文』には、

 「『桑名よりくはで来ぬれば』と云ふ日永(なが)の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍(にぐら)うちかへりて馬より落ちぬ。

 歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉」

とある。
 「桑名よりくはで来ぬれば」というのは『古今夷曲集』にある伝西行の歌で、

 桑名よりくはで来ぬればほし川の
    朝けは過て日ながにぞ思ふ

のことだ。「杖つき坂」は四日市宿を出て、次の石薬師宿へ行く途中、内部川を越えた向こう側の上り坂で、鈴鹿越えの道へと向かう。伊賀へ行く場合は途中の関宿から分れて加太の方へと向かう。
 芭蕉の発句が、杖つき坂なんだから馬に乗らずに地道に杖を突いて登ればよかった、という後悔とともに、急がば回れ的な教訓を含む句なので、脇もそれに応じなくてはならない。
 土芳の句は「牛だってみんながみんな角突き合わせているのではない、素直さが大切だ」というもので、教訓に教訓で返す。これが正解だったのだろう。
 土芳が最後のこの自分の句を持ってきたのは、別に師に褒められた自慢がしたいのではなく、俳諧の事でいろいろ議論をするのがいいが、角突き合わさずに仲良く議論しよう、という所で締めにしたかったのではないかと思う。

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