2018年4月8日日曜日

 今日は秦野市の千村の八重桜を見に行った。2015年の4月19日にも見に行っているが、今年は十日以上も早い。このあたりの八重桜は塩漬けなどにして食用にするための花を取るためのもので、既に収穫が始まっていた。
 前回は頭高山に登ったが、今回は篠窪の方へ抜けた。このあたりにも八重桜の木があり、やはり収穫が始まっていた。
 途中から、古代東海道の旅(鈴呂屋書庫にりまあす)の時に通った道に合流し、富士見塚からは富士山や真鶴半島が良く見えた。
 それでは、「宗祇独吟何人百韻」の続き。初裏に入る。

 九句目

   枯るるもしるき草むらの陰
 鳴く虫のしたふ秋など急ぐらん  宗祇

 宗牧注
 秋に云掛たる心也。草むらの陰は、むしの鳴所也。枯る草、暮秋をいそぐやう也。
 周桂中
 前句のかげ大事也。虫のなき所也。虫の秋をしたふ心、おもしろき句様成べし。

 「草むらの陰」に「鳴く虫」、「枯るる」に「など急ぐ」と付く。草が枯れる頃、虫も死んでゆく。秋の終わるのを待ってほしい気持ちを付ける。
 「秋など」ではなく、「秋、など急ぐ」で、秋は何で急ぐのだろうかという意味。
 『水無瀬三吟』七句目の、

   霜置く野原秋は暮れけり
 鳴く虫の心ともなく草枯れて   宗祇

の句を思わせる。

 十句目

   鳴く虫のしたふ秋など急ぐらん
 そのまま烈(はげ)し野分だつ声 宗祇

 宗牧注
 野分が秋をいそぐ体也。
 周桂注
 野分を虫の悲しみあへず野分ニなる心也。秋のいそぐを野分になるにて付たる也。誠に秋をいそぐといはんに似あいたる歟。声といふ字、自然に虫におりあひて面白し。

 「風雲急」という言葉もある。野分の嵐は突然やって来る。前句の「秋が急いていってしまう」という意味から「秋の野分は何で急なんだ」という意味へ読みかえる。

 十一句目

   そのまま烈し野分だつ声
 目にかかる雲もなきまで月澄みて 宗祇

 宗牧注
 一段雲の晴たる体也。野分の連歌をば、付るも一句にもつよく仕立たるをよしといへり。
 周桂注
 野分の時分の体なるべし。

 台風一過で空はすっかり晴れ渡るが、風はまだ音を立てて吹いている。秋も三句目なのでここいらで月の欲しい所だった。

 十二句目

   目にかかる雲もなきまで月澄みて
 清見が関戸浪ぞ明け行く     宗祇

 宗牧注
 彼関の眺望、まことに眼前の句也。清見に雲を読り。
 周桂注
 彼所の眺望也。山もなく平々としたる所也。深(ふけ)てあくるといへる次第也。

 「清見に雲を読り」は「雲」と「清見が関」に本歌があることをいう。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集)の金子金次郎注には、

 清見潟むら雲はるる夕風に
     関もる波をいづる月影
             藤原良経

を引いている。
 「お得区案内図」というサイトの「清見潟」の所には、

 あなしふくきよみがせきのかたければ
     波とともにて立ちかへるかな
             源俊頼
 さらぬだにかはらぬそでを清見潟
     しばしなかけそなみのせきもり
             源俊頼
 よもすがら富士の高嶺に雲きえて
     清見が関にすめる月かな
             藤原顕輔
 清見潟関にとまらで行く舟は
     あらしのさそふ木の葉なりけり
             藤原実房
 きよみがた浪地さやけき月を見て
     やがて心やせきをもるべき
             藤原俊成
 いづるよりてる月かげの清見潟
     空さへこほるなみのうへかな
             藤原定家
 清見潟せきもるなみにこととはむ
     我よりすぐるおもひありやと
             藤原定家

などの歌も記されている。
 清見潟の月が美しく、清見関は嵐で渡れなくなるところから波が関守になるという趣向が古くから繰り返されている。
 雲もなく月が澄めば、清見が関の波の関守も関を開けてくれる。
 清見が関は今の静岡市清水区の興津にあり、東海道五十三次の興津宿にある。南東が海に面しているので、海から月の昇るのが見える。
 今の薩埵峠の道は近世以降のもので、それ以前は波の打ち寄せる海岸を通る難所だったと言われている。それゆえ、波が高いと通れなくなり、そこから清見が関は波が関守だと言われたのだろう。
 なお、周桂は「山もなく平々としたる所也」というが、清見潟の北東には薩埵山があり、近世には薩埵峠の道が開かれる。背後の北西も低い山々が迫っていて「平々としたる所」ではない。
 コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」によると、周桂は「宗碩(そうせき)の門人。師とともに九州,中国,近畿地方をしばしば旅し,指導にあたる」とあるので、東の方の地理には詳しくなかったと思われる。

 十三句目

   清見が関戸浪ぞ明け行く
 いつ来てか住田河原に又も寝む 宗祇

 宗牧注
 すみだ河原、駿河・武蔵両国の名所也。彼関の面白きを感じて、いつ来てか又ねんと也。
 周桂注
 程ちかき名所也。又もねんにて清見が関のおもしろきをいへり。

 住田河原は清見寺の側を流れる波多打川の河原と思われる。興津川や庵原川とちがい、山の間の細い谷を流れる清流で、風情があったのだろう。これから清見が関を越えて吾妻へ行くが、また帰ってこれたらここで一泊したいものだと付く。
 すみだ川といえば武蔵と下総との境界にも有名な隅田川があり、次の句では武蔵の隅田川の方に取り成すことを念頭においていたと思われる。

 十四句目

   いつ来てか住田河原に又も寝む
 はなればつらし友とする人   宗祇

 宗牧注
 是はむさしのすみだ河原にして付たる也。伊勢物語の心なり。
 周桂注
 武蔵の角田川也。伊勢物語にあり。

 前句の駿河の住田川(波多打川)を東京の隅田川に取り成す。
 都鳥の歌でも有名な『伊勢物語』第九段の冒頭には、

 「昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりしていきけり。」

とあり、やがて、

 「なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ」

というところに辿り着き、

 名にし負はばいざこととはむ都鳥
     わが思ふ人はありやなしやと

という歌を詠むことになる。
 かつては隅田川の東、今で言う江東区、墨田区、江戸川区などは下総国だったが、江戸時代初期に江戸市街の拡大によって武蔵・下総の国境が今の位置に変更された。

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