2023年8月19日土曜日

  悪の起源ということがXでも話題になっていたが、朱子学で言えば孟子の性善説の根拠とされる四端の心が何で悪に変わるかという問題になる。それは流れる水を堰き止めれば逆流するような、という説明があったような気がするが、昔学校で習ったことなので、もう一度読み返す必要があるかもしれない。
 ただ、何が善かという時に、必ず生命を基準にしてるんではないかと思う。つまり生命のない宇宙空間に善は存在するかというと、それを考えることは難しい。一種の擬人化として、ビッグバンによる宇宙の誕生は善で、最終的にそれが熱死に至るならそれは悪なのかもしれない。ただここでも春に万物が生じるのを喜び、秋に止むのを悲しむの延長のように思える。
 生命=善、死=悪はおそらく全体としては正しいのだろう。個別的にはより多くの命を救うために死ぬのは善という逆転はあるかもしれない。また多くの命を救うために殺すのも善という逆転はあるかもしれない。
 ところで宇宙の大半は広大な死の世界で、生命が或る種奇跡と呼べる現象であるなら、宇宙全体は概ね悪で、その中の例外的な命が善ということになるのか。
 宇宙は生と死を包括してるものだから、それ自身は善でも悪でもあるし、それらをすべて包み込んでいる。そしてその宇宙が生命を誕生させたのなら、そして死すべき運命を与えたのなら、宇宙は善悪を越えたものということになる。
 つまり、仮に全知全能の神が存在するなら、それは善も悪も含んた善悪を越えた存在だということになる。
 しかもこの神は生命が他の生命を殺して食うことでしか存続できないものとしたなら、明らかに悪は生命の創造そのものの内にあることになる。
 我々の意識は、それがたとえ神性に通じる理性だとしても、この理性そのものが他の生き物を殺して食うことによって成り立っている。しかも食料は無限に存在せず、人は絶えず人口の過剰によって人間同士でもまた殺し合ってきた。
 人間は欠陥生物だというが、人間に限らずすべての生物は食物連鎖の中にあるだけでなく、絶えず個体数過剰の中で同種同志て争うことが宿命づけられている。ならば、悪は神が生命を想像した時点既に存在してたと言わざるを得ない。
 多神教であるならば、神が何らかの悪意があって悪を想像したと考える必要はない。神様もまた互いに争い、その争いは人間の争いや他の生物の争いとはまた違う、神にしか理解できない、人知を越えた争いにすぎないからだ。悪は最初からこの混沌とした世界の内に内在してたと考えるしかない。
 「性は善である」という時の「性」は朱子学では理とも誠とも呼ばれるものだが、その根源が緯ではなく経、つまり時間に対して開かれていて、時間を認識し、物事の順序や因果を思考することから生じるものであるなら、意識そのものが善だということになる。ただ、その意識は実際の気の世界の中で生きて行く限り、生きるための争いが不可欠になり、そこに悪が生じる。悪は「気」の側に存在するということになる。
 基本的に生命が殺すことなしに生きられないという時点で、既に悪は存在している。その悪の根源は自然に存在してるのか、造物主が仕組んだのかというだけの違いにすぎない。仕組んだのであればそれは「試練」と考えるのが適切であろう。造物主は殺し合いのゲームとしての生命の世界を創造し、そこでの戦い方を見ながら天国行きと地獄行を判定しているだけのことだ。
 それが何ら意図されない自然のゲームであるにしても、ただ報酬としての天国と地獄がないだけで、実際にやるべきことは変わらない。ただ報酬は自分で満足できるかどうかの問題になるだけのことだ。
 いずれにせよ生命が存在する限り、我々がその生命を意識する限りにおいて、悪が存在し、そこから抜け出したいという思いがひと時の善を生み出すにすぎない。時雨の中の宿りのような。それを見出すのが風雅の誠と言って良い。
 あと、X奥の細道六月分を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「軽口に」の巻の続き。

名残表
七十九句目

   風呂屋の軒をかへるかりがね
 行灯のひかりのどけき天のはら

 「ひかりのどけき」は、

 久かたの光のどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
             紀友則(古今集)

だが、ここでは行灯だから夜になり、夜の風呂屋の軒の上の空に雁が帰って行く。
 特に本歌というのではなく、ただ言葉としてそのまま用いている。
 点なし。

八十句目

   行灯のひかりのどけき天のはら
 ふりさけ見れば淀のはしぐゐ

 「ふりさけ見れば」は、

 天の原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山に出でし月かも
              阿倍仲麻呂(古今集)

だが、特に本歌というわkではない。ただ遠くに淀の橋杭がみえる。
 淀川にはかつて古代に作られた長柄の橋があり、

  難波なる長柄の橋もつくるなり
     今はわが身を何にたとへむ
              伊勢(古今集)

の歌は『談林十百韻』「いざ折て」の巻六十三句目にも、

   あらためざるは父の印判
 借金や長柄の橋もつくる也    一朝

とネタにされている。その長柄の人柱伝説は今は廃曲だが謡曲『長柄』にもなっていた。
 点あり。

八十一句目

   ふりさけ見れば淀のはしぐゐ
 かうぶりの声も跡なき夕まぐれ

 淀川の河口域は蝙蝠の声もない。もっとも、蝙蝠の声は人には聞こえないものだが。

 うらさびて鳥だに見えぬ島なれば
     このかはほりぞ嬉しかりける
              和泉式部(夫木抄)

の歌があるだけに、いっそう淋しげだ。
 点なし。

八十二句目

   かうぶりの声も跡なき夕まぐれ
 みみづくさはぐ萩の下露

 日が暮れると蝙蝠も見えなくなり、ミミズクが鳴き出す。

 秋はなほ夕まぐれこそただならね
     荻の上風萩の下露
              藤原義孝(和漢朗詠集)

の、特に下句のフレーズはかつてはよく知られたものだった。「夕まぐれ」に「萩の下露」で応じ、蝙蝠にミミズクを付ける。
 点なし。

八十三句目

   みみづくさはぐ萩の下露
 野の色もあかい頭巾やそほぐらん

 木菟引(ずくひき)というミミズクを囮にした猟があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「木菟引」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 ミミズクをおとりとして小鳥を黐竿(もちざお)でとらえること。昼間目の見えないミミズクをつつこうとして他の鳥が近づくのを利用して、捕獲するもの。木菟落(ずくおとし)。《季・秋》
  ※俳諧・桜川(1674)冬二「づく引、耳つくやひき野のつつらくる小鳥〈如白〉」

とある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注によれば、この時の囮のミミズクに赤い頭巾を被せるのだという。張子のミミズクが赤いのもそのためか。
 前句のミミズクを囮のミミズクとする。
 点なし。

八十四句目

   野の色もあかい頭巾やそほぐらん
 木やりで出す山のはの月

 「木やり」は木遣唄でコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「木遣唄」の意味・わかりやすい解説」に、

 「日本民謡分類上、仕事唄のなかの一種目。重い物を移動させるおりの唄の総称で、また曲目分類上の一種目にもなっている。「木遣」とは、文字どおり木、すなわち材木を大ぜいで力をあわせて移動させることであるが、それから転じて、重い物を人力を結集して動かすときの唄はすべて「木遣唄」とよばれるようになった。その発生は古く、日本民謡の仕事唄の原点と思われるが、古くは掛け声とか囃子詞(はやしことば)とよばれるだけのものであったと推測される。ところが社寺建立などのおり、建築用材を氏子や檀家(だんか)の人々が曳(ひ)く場合、全員の力を結集するため、神官や僧侶(そうりょ)が社寺の縁起を唄にして、綱を曳く人々に説いて聞かせ、掛け声の部分で綱を曳かせる方法をとり始めた。これが「木遣口説(くどき)」である。この唄は、和讃(わさん)の七五調12韻や御詠歌の七七調14韻を必要なだけ繰り返していく形式と曲調を母体にしたものらしく、発生は室町時代前後ではないかと思われる。しかし、社寺の縁起だけでは綱曳き連中は飽きてくるし、音頭取りも社寺の人にとどまらず、美声であるためにまかされて代理を務める人まで現れると、歌詞の内容も世話物的なものにしだいに変わっていった。さらに江戸時代に入ると、七七七五調26韻の詞型が大流行したため、ついにはこれへ移行していった。しかし、音頭取りが存在し、囃子詞の部分をその他大ぜいが受け持つという音頭形式だけは踏襲され、のちには盆踊り唄の中心をなすまでになった。木遣唄に無常観のような哀調が漂っているのは、和讃や御詠歌を母体にして派生してきたためと思われる。
[竹内 勉]」

とある。野の赤い頭巾を材木運びの人として木遣唄を歌いながら運ぶうちに日は沈み月が昇る。
 長点で「おききやるかおききやるか、明白なる月に候」とある。「おききやるか」は木遣唄の掛け声と思われる。

八十五句目

   木やりで出す山のはの月
 くらきよりくらきにまよふ日用共

 日用(ひよう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「日用・日傭」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① =ひようとり(日傭取)
  ※漢書列伝竺桃抄(1458‐60)陳勝項籍第一「傭耕とは人にやとはれて賃を取てひやうの様につかわれて耕するぞ」
  ※政談(1727頃)二「此七八十年以前迄は日傭を雇て普請する事はなき也」
  ② 日雇いの賃金。日用銭。日用賃。
  ※仮名草子・可笑記(1642)五「傅説(ふえつ)といふ大賢人は、日用をとり堤をつく、人足の中よりたづね出されて」
  ③ 江戸時代、日用座の支配下にあって、日用札の交付を受けて日雇稼ぎをする者。鳶口・車力・米舂・軽籠持などの類。
  ④ 林業地帯において小屋掛け・山出し・管流(くだなが)しなどの運材労働に従事する人夫の総称。」

とある。
 専門の材木運びのプロではなく臨時で雇われた人足は、暗くなるとどうしていいかわからなくなる。
 点あり。

八十六句目

   くらきよりくらきにまよふ日用共
 わらんづ脚絆六道の辻

 「わらんづ」はコトバンクの「世界大百科事典内のわらんずの言及」に、

 「…奈良時代に唐から伝わったくつ形の草鞋(わらぐつ)が平安時代末期に現在のような鼻緒式のわらじに改良され,〈わらうず〉と呼んだ。鎌倉時代には〈わらんず〉,室町時代に〈わらんじ〉,江戸時代になって〈わらじ〉と呼ばれるようになった。」

とあり、「わらじ」の古い言い方。俳諧では字数の関係で「わらんじ」も用いられる。
 前句の日用は亡くなると草鞋に脚絆姿で地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の六道の辻でどこへ落ちるか迷う。
 京都東山の鳥辺野葬場の入口付近も六道の辻といい、古代の鳥葬の地を連想させる。
 点なし。

八十七句目
   わらんづ脚絆六道の辻
 たつたいま念仏講はおどろきて

 念仏講は頼母子講とも言い、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「念仏講」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 念仏を行なう講。念仏を信ずる人達が当番の家に集まって念仏を行なうこと。後に、その講員が毎月掛金をして、それを講員中の死亡者に贈る弔慰料や、会食の費用に当てるなどする頼母子講(たのもしこう)に変わった。
  ※俳諧・新続犬筑波集(1660)一「はなのさかりに申いればや 千本の念仏かうに風呂たきて〈重明〉」
  ② (①で、鉦(かね)を打つ人を中心に円形にすわる、または大数珠を回すところから) 大勢の男が一人の女を入れかわり立ちかわり犯すこと。輪姦。
  ※浮世草子・御前義経記(1700)三「是へよびて歌うたはせ、小遣銭少しくれて、念仏講(ネンブツカウ)にせよと」

とある。訃報が入ると今までの掛金からお金を支出しなくてはならないから大騒ぎになる。
 点なし。

八十八句目

   たつたいま念仏講はおどろきて
 そのあかつきに見えぬ銭箱

 打越を離れると何に驚いたのかはよくわからなくなる。ただ、その騒ぎに紛れて積立金の事をみんな忘れて、銭箱がぽつんの虚しく残される。
 点あり。

八十九句目

   そのあかつきに見えぬ銭箱
 明星が市立跡のあれ屋敷

 明星が市は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注によると、伊勢国多気郡明星村にあった茶屋だという。今は明和町明星で、近鉄の駅もある。伊勢街道の名物茶屋だったのか。今は廃墟となって、そこにあった銭箱もない。
 地名が明星だけに「そのあかつき」になる。
 点なし。

九十句目

   明星が市立跡のあれ屋敷
 上戸も下戸もばけ物もなし

 明星が市では、かつては上戸も下戸もたくさん訪れていたのだろう。今は化け物すら出ない。
 点なし。

九十一句目

   上戸も下戸もばけ物もなし
 君が代は喧嘩の沙汰も納りて

 「君が代」に「治まる」は中世によく用いられた言い回しで、君が主君の意味から天下を漠然と表す意味に変わって来たことによるものだろう。

 吹く風も治まりにける君が代の
     千歳の数は今日ぞ数ふる
              後嵯峨院(玉葉集)

の和歌や、応仁元年夏心敬独吟山何百韻七十六句目に、

    身を安くかくし置くべき方もなし
 治れとのみいのる君が代     心敬

の句がある。
 上戸も下戸も喧嘩することなく日本は平和だ、と言いたい所だけど大きないくさがないだけで火事と喧嘩は江戸の花というくらいだ。
 点あり。

九十二句目

   君が代は喧嘩の沙汰も納りて
 苔のむすまでぬかぬわきざし

 江戸の町の平和は、各自が脇指で武装してることで抑止力となっていた側面があった。西鶴は後の貞享三年の『好色一代女』に、

 「町人の末々まで、脇指といふ物差しけるによりて、言分・喧嘩もなくて治まりぬ。世に武士の外、刃物差す事ならずば、小兵なる者は大男の力の強さに、いつとても嬲られものになるべき。一腰恐ろしく、人に心を置くによりて、いかなる闇の夜も独りは通るぞとかし。」

と記している。
 相手も脇指を持ってると思うと、どんな腕力に覚えのあるものでも、グサッとやられれば終わりだと思ってなかなか手も出せない。脇指抑止力とでもいうべきか。
 「君が代」と「苔のむすまで」の縁は言わずとしてたあの歌による。
 点あり。

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