所詮同じ人間じゃないか、そう思う普遍的な感情は基本的人権の源泉であり、民主主義の基礎でもある。
ただ、こう言われるのを侮辱だと感じる人もいるようで、そういう人が独裁政治をやりたがるのだろう。
それではX奥の細道の続き。
七月十一日
今日は旧暦7月10日で、元禄2年は7月11日。高田を出る。
今日はよく晴れた。高田を出て午前中に直江津の五智国分寺と越後国一之宮の居多神社を見て回った。これからまた海岸沿いの道だ。それにしても暑い。
あれから海岸沿いの道を延々と歩いて、夕暮れには能生に着き、玉屋五郎兵衛の宿に泊まった。今日も夕日が海に沈む。月も南の空に見える。大分丸くなってきた。お盆も近い。
七月十二日
今日は旧暦7月11日で、元禄2年は7月12日。能生を出る。
今日も良い天気で、昨日に続いてまた海岸の道を延々と歩いてる。
途中早川という川を渡ってる時に転んでびしょ濡れになった。まあ、この日差しならすぐ乾くが。
昼は糸魚川の荒屋町の左五左衛門の宿で休憩した。前日名立に泊まった場合はここで宿泊する予定だったようだ。名立からの返事がなかったので能生まで行ったんだという。
ここでも加賀大聖寺から何か連絡があったようだ。曾良はしっかり仕事している。
糸魚川を出てしばらく行くと親知らず子知らずという断崖絶壁の迫るところがあったが、今日は天気も良く波も穏やかで問題はなかった。
この辺りまで来るとうっすらと能登が見えてくる。
夕日が能登に傾く頃、市振に着いた。
市振に宿を取ると新潟から来たという遊女二人と付き添いの老人が泊まってた。
遊郭の遊女は籠の鳥だが、田舎の方では結構こういう自由な遊女がいて、そんな珍しくもないけどね。
これから伊勢へ行くという。遷宮の年だし自分もこれから行くからね。
一つ家に遊女も寝たり‥、そのまんまだけど何か季語を入れたら発句になるかな。
遊女は臥すものだから萩。そこに真如の月が照らすと、萩の露がきらきら光る。
一家に遊女もねたり萩と月 芭蕉
七月十三日
今日は旧暦7月12日で、元禄2年は7月13日。市振を発つ。
市振を出ると能登の方に虹がかかってた。不安定な天気のようだ。
ちょっと行くと玉木村という所に川があって、ここを渡ると越中になる。
渡るとすぐ先に境の関があった。加賀藩の領内の入るとさすが加賀百万石だ。馬に乗れた。
入善まで来ると広い川の河川敷になっていて、ここは馬で通れないという。黒部川の河口はたくさんの川に分かれていて、その都度足を濡らして越えなくてはならない。曾良が人を雇って荷物を持たせて、何とか渡ることができた。今日は転ばないよ。
川上に一里半行った所には橋があるので、雨が続く時はみんなそっちを通るという。
黒部川を渡ったあと、雨が降ってきたが、晴れるとまた暑い。
まあ、でも馬での移動は楽だ。明るいうちに滑川に着いた。
七月十四日
今日は旧暦7月13日で、元禄2年は7月14日。滑川を出る。
今日も良い天気で滑川を出た。また海岸沿いの道が続く。高田を出てから異常に暑い日が続いてるが、歩かなくていいのは助かる。昔詠んだ、
命なりわづかの笠の下涼み 桃青
の句を思い出す。
東岩瀬までは3里ほどだった。渡し船で大きな川の河口を渡った。
ここを通れば富山藩の手形なしに向こう側に行くことができる。分断された加賀藩の回廊のようなものだ。
富山城は一里ほど川上になるらしい。
川を渡ると久しぶりに湿地帯の広がる場所に来て、やがて大きな入江になる。ここが那古の浦か。
越の海あゆの風吹く那古の浦に
船は留めよ波枕せむ
藤原仲実
の歌に詠まれた所か。今日はアイの風もなく暑い。
那古の大きな干潟を見ながら海沿いを行くと、放生津八幡宮があった。放生会をするところからその名があるという。
そういえば尾花沢の興行でも放生会をネタにしたっけな。
この先また大きな川の河口を渡る。
川を渡り、右に折れると海岸沿いに能登へ行くという。こっちへ行くと氷見という所に歌枕名寄の、
この頃は田子の藤波なみかけて
ゆくてにかざす袖や濡れなむ
土御門院
の歌に詠まれた田子の藤波があるという。
行ってみたいが狭い道を5里歩かなくてはならないだとか、行っても泊まる所がないと言って曾良に止められた。
この辺りへ来ると田んぼで早稲を作ってるのか、独特な匂いがする。曾良はいい匂いだというが、やっぱ臭い。
わせの香や分入右は有磯海 芭蕉
高岡に着いた。二上山は目の前にある。
玉くしげ二上山に鳴く鳥の
声の恋しき時は来にけり
これも歌枕名寄にあった。
ここで一泊だが、何だかとにかく疲れた。
七月十五日
今日は旧暦7月14日で、元禄2年は7月15日。金沢へ。
今日はお盆で、これから倶利伽羅峠を越えて金沢に向かう。木曽義仲の火牛の計は俳諧でもネタにされてるが、本当なのだろうか。
今日も暑い日になりそうだ。昨日はあれから気分が悪くなった。気をつけよう。
埴生八幡に参拝した。木曽義仲もここで戦勝祈願をしたという。
ここまでは平坦な道だったが、ここから山越の道になる。
埴生八幡から少し行って川を渡ると、西へと尾根道を登ってゆくことになる。道は結構広いし馬で越えられるのは有り難い。
稜線の尾根道を行き、高いところまで来ると、左に源氏山、右に卯の花山が見える。木曽義仲もこの辺りに陣を張ったという。
道は一度下ってから卯の花山の北側の脇を抜けて行き、ここが倶利伽羅峠になる。
倶利伽羅峠を越えた。その火牛の計のあったという谷は山の裏側で、結局見えなかった。
そのあとまた稜線上のだらだらとした道が続く。
曾良はこういう直線的な尾根道は古代の駅路の名残だというが、どうでもいい情報だ。
やはり馬は楽だ。暑い一日だったけど意外に早く金沢に着いた。京屋吉兵衛の宿の泊まることになった。
竹雀と一笑を呼んできてもらったが、竹雀は牧童を連れてすぐにやってきたが、一笑が去年の12月に亡くなったことを知った。
とにかく今日の木曽義仲の旧跡を見てきた楽しい気分が一気に吹っ飛んだ。まだ若かったはずだ。
出発前に名古屋の荷兮に今度の撰集阿羅野の序文を送ったが、その阿羅野には一笑の句が載っていた。
元日や明すましたるかすみ哉
いそがしや野分の空に夜這星
火とぼして幾日になりぬ冬椿
会いたかった。
一笑の死のショックは大きかったが、集まった金沢の人達に慰められながら、気を紛らわす意味でもお盆の発句を作ってみた。
九郎判官義経に成敗された盗賊の頭の熊坂長範は加賀の生まれだったということで、この辺りだと親類縁者がいるのかな。
だとすると熊坂長範の魂を持つる人達もいるのかなって思った。
熊坂がゆかりやいつの玉まつり 芭蕉
一笑の魂も初盆で帰ってきてくれてるなら聞いてるかな。
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