2021年11月22日月曜日

 今日は久々に雨の一日になった。
 大谷選手の国民栄誉賞って、いくらなんでもこのタイミングじゃないだろう。やはり引退間際になって、そうそうたる通算成績を残したとき、それがタイミングではないか。将棋の藤井君も永世七冠の羽生さんに並んでからだろうな。
 この二年間のコロナ時代を振り返ると、西洋に対するイメージがかなり暴落したかな。もちろん、ワクチンや治療薬の開発のスピードは凄いと思う。ただ政治の方のごたごたを見ると、あれは真似してはいけないというところだ。
 それとともに西洋かぶれの知識人も信用を失ったのではないかと思う。この前の選挙もそうした要素が多分にあったのではないかと思う。
 デモはいかにも民主的なように見えるが、あれは圧政に抵抗するときに意味があるだけで、そうでなければごく少数の声で政治が動くというマイナス面ばかりが大きくなる。サイレント・マジョリティーが置いてきぼりになり、選挙になると一気に反動が来る。
 名だたる学者先生も未知の事態となると、どうしたって前例主義が顔を出してしまう。コロナ流行の初期には、一般の間ではただならぬことが起きているというのが直感できたが、学者は従来のコロナウィルスの常識に囚われていた。いろいろ批判は受けたけど、結局直感で動いた当時の安倍政権のコロナ対策は間違ってなかった。エビデンスを叫んだケンサーズは今回も敗北した。
 せっかく悟りを得ても、一神教の文化はこれで神知に近づいたという幻想を抱きがちになる。これに対し我々の文化は禅問答のように、既存の理論に囚われない機知を重視してきた。理屈に囚われないというのは我々の美徳だ。
 異世界物が流行るのも、日本人は未知の環境に対する適応力が高く、簡単に異世界を受け入れる設定にできるからではないか。いきなりスライムや蜘蛛になっても日本人はすぐに活躍させられるが、ドイツ人はグレゴール・ザムザになってしまうのではないか。
 カフカが出たところで若いころ読んだ『城(Das Schloss)』を思い出したが、あれも一種の異世界物として読んでも良いのではないか。
 いきなり異世界に迷い込んで、そこで自分の居場所を求める物語で、Man muss sich das bittere leben versüßen.というのが一つの答えになる。ペピはツーテールが似合いそうだ。
 
 それでは風流の続き。
 元禄七年(一六九四)閏五月二十二日、京都落柿舎での興行。芭蕉はもとより、珍碩あらため洒堂、去来、支考、丈草、惟然など、名だたるメンバーが集結する。
 発句は、

 柳小折片荷は涼し初真瓜     芭蕉

で、「柳小折の片荷は初真瓜にて涼し」の倒置だ。

 「柳小折(やなぎこり)」は柳行李のことで、柳の樹皮を編んで作ったつづら籠のこと。本来は収納用で、それを天秤棒で担ぐというのは、誰かが差し入れでわざわざ持ってきてくれたものか。片方の荷はおそらく日用品で、もう一方に採れたての真瓜(まくわ)が入っていたのだろう。
 真瓜は今日では「まくわうり」と呼ばれ、「真桑瓜」という字を当てているが、本来は「瓜」という字を「くゎ」と発音していたため、胡瓜に対して本来の瓜ということで真瓜(まくわ)と呼んでいたのだろう。だとすると、「まくわうり」は同語反復になる。
 八句目。

   上を着てそこらを誘ふ墓参
 手桶を入るるお通のあと     芭蕉
 (上を着てそこらを誘ふ墓参手桶を入るるお通のあと)

 お盆の頃は参勤交代の季節でもあったので、行列が通るというので一応羽織だけ着て、通り過ぎたら手桶を持って墓参りに向う。
 同じあるあるネタでも、大名行列の格式ばったスタイルに風刺が込められている。上だけの庶民と違い、きちっと正装して通過する武士の汗だくの姿が浮かんでくる。
 十七句目。

   黒みてたかき樫の木の森
 月花に小き門ンを出ッ入ッ    芭蕉
 (月花に小き門ンを出ッ入ッ黒みてたかき樫の木の森)

 さて、花の定座で、初裏にはまだ月が出てなかった。だからここで両方一気に出すことになる。
 「月花に黒みてたかき樫の木の森の小き門ンを出ッ入ッ」の倒置となる。
 前句を樫の木の森に住む隠者の句にして、月花を愛でると展開する。
 『去来抄』には、

 「此前句出ける時、かかる前句全体樫の森の事をいへり。その気色(けしき)を失なハず、花を付らん事むつかしかるべしと、先師の付句を乞けれバ、かく付て見せたまひけり。」

とある。 弟子たちに頼まれての、こういう時にはこうやって付けるんだよという模範演技だったようだ。
 連歌で言う「違(たが)え付け」で、反対の物を付けながらも対句風にする迎え付(相対付け)とちがい、時間の経過や場所の移動などを含めることで辻褄を合わせる。
 二十四句目。

   薄雪の一遍庭に降渡り
 御前はしんと次の田楽      芭蕉
 (薄雪の一遍庭に降渡り御前はしんと次の田楽)

 前句の「一遍」を一遍上人のことと取り成して、境内での田楽を付ける。一遍上人は田楽を布教に取り入れ、念仏踊りを流行させた。これが盆踊りの起源とも言われている。
 開演前のまだ人の集まる前の風景であろう。

 「鶯に」の巻は元禄七年の正月に去来が浪化と巻いた半歌仙を元に、閏五月に京都にやってきた芭蕉を迎え、指導を受けながら歌仙一巻を完成させた、やや特殊な一巻だ。芭蕉は後半のみの参加になる。
 十九句目。

   一阝でもなき梨子の切物
 玉味噌の信濃にかかる秋の風   芭蕉
 (玉味噌の信濃にかかる秋の風一阝でもなき梨子の切物)

 信州というと今はリンゴの産地だが、これは明治になってからのこと。
 信州では梨も栽培されているが、芭蕉の時代にまだあまり盛んでなかったのか。信州の山の中では品薄で、一分金でも買えない、と付く。
 それを「信濃の秋の風」と軽く気候の言葉に流し、その信濃に枕詞のように「玉味噌の信濃」と冠す。「かかる」が「味噌のかかる」と、「かくある秋の風」と掛詞になっているところも芸が細かい。
 二十三句目の浪化の句。

   点かけてやる相役の文
 此宿をわめいて通る鮎の鮓    浪化
 (此宿をわめいて通る鮎の鮓点かけてやる相役の文)

 前句の同僚の書いた漢文を相役が添削してやるという句だが、これを鮎寿司の振り売りに取り成す。
 おそらく浪化が句を付けるとき、芭蕉はこういう指導をしたのだろう。「点は別に『点』のこととする必要はない。『てん』と読むものであれば何か別のもののことにしてもいい」と。
 こうして、「てん」は天秤棒ととなり、鮎寿司売りが何やら気に入らないことがあるのかわめき散らしている。
 仕事が気に入らないとごねているのか。そこで相役が「まあまあ」となだめながら、肩に天秤棒を担がせてやる。
 「相役の文(ふみ)」。そう、相役の名前はお文(ふみ)さん。女房か何かだろう。
 鮎寿司はなれ寿司のことで、鮎とご飯を混ぜて乳酸発酵させたもの。夏の保存食で、旅などに持ち歩くにもいいから、宿場で売っている。
 三十二句目。

   参宮といへば盗みもゆるしけり
 にっと朝日に迎ふよこ雲     芭蕉
 (参宮といへば盗みもゆるしけりにっと朝日に迎ふよこ雲)

 これはいわゆる「花呼び出し」だ。次の人に花の句を詠んでもらいたいというときに、いかにも花の似合いそうな句を出す。ここで芭蕉は、あえて花の定座を二句繰り下げて、去来に花を持たせる。
 句のほうは伊勢参宮のあらたまった厳かな匂いで、「盗みもゆるす」に朝日に横雲の「にっと」微笑む姿が付く。
 そして去来の三十三句目。

   にっと朝日に迎ふよこ雲
 蒼みたる松より花の咲こぼれ   去来
 (蒼みたる松より花の咲こぼれにっと朝日に迎ふよこ雲)

 『去来抄』「先師評」によると、最初去来は、

   にっと朝日に迎ふよこ雲
 すっぺりと花見の客をしまいけり

と付けたという。
 ところがどうも芭蕉の顔色が険しいので、あわてて芭蕉に付け直していいか尋ね、

   にっと朝日に迎ふよこ雲
  陰高(かげたか)き松より花の咲こぼれ

と直し、最終的に「蒼みたる」の句になったという。
 「にっと」という擬音に「すっぺりと」と擬音で付けるのだが、これは単なる言葉の連想で、匂いということではない。「すっぺりと」というのは「すっかり」という意味で、きれいさっぱりというときには「すっぺらぽん」なんて言葉もあった。
 昼間は大勢の人がドンチャン騒ぎをしてにぎわっていた桜の名所も夕暮れには帰り、明け方ともなれば人っ子一人いず、完全に花見の客を仕舞ってしまったかのように、朝日の前にたなびく横雲が笑っているようで、そこに有名な藤原定家の、

 春の夜の夢の浮橋とだえして
    峰にわかるるよこぐものそら

の句を思い起こさせる。
 おそらく芭蕉は前半の懐紙を見て、去来の弱点に気付いていたのだろう。浪化が素直に景色の美しさを詠んでいるのに対し、去来は技に溺れて無理にこねくり回した句を付けていたため、浪化に蕉門俳諧の本当の面白さを教えることが出来なかった。
 ただ、改作しても、去来の付け方は観念的だ。薄暗い中に朝日が「にっと」急に射してくるそのコントラストから、松の影の黒々とした中に花の姿が現れる景色としたのだが、「陰高き」の上五では、その意図が露骨に表れてしまう。
 「蒼みたる」と言い換えて、その作為を隠したところでこの付け句は完成する。
 三十五句目。

   四五人とほる僧長閑なり
 薪過ぎ町の子供の稽古能     芭蕉

 (薪過ぎ町の子供の稽古能四五人とほる僧長閑なり)

 僧が出たところで、芭蕉はこれを奈良の景色に転じる。これも「僧」に対して「奈良」と言葉を出してしまえば単なる物付けだが、あくまでもそれを表に出さず、匂いだけで付けるところに芭蕉の技術がある。
 「薪能(たきぎのう)」は今では屋外での公演を一般的に指すが、本来は二月初旬に奈良興福寺南大門で行なわれる能のことだった。それゆえ春の季語になる。
 ただ、芭蕉の句はこの薪能そのものを詠むのではなく、薪能を見て刺激されたのか、奈良の子供たちが能楽師に憧れて能の稽古に励んでいる様を付ける。

 元禄七年閏五月下旬、芭蕉の京都滞在中、「牛流す」の巻の興行が行われる。
 六句目で支考が面白い技を見せる。

   月影に苞の海鼠の下る也
 堤おりては田の中のみち     支考
 (月影に苞の海鼠の下る也堤堤おりては田の中のみち)

 「苞(つと)」に「つつみ」、「さがる」に「おりて」と類似語で付いている。支考ならではの閃きか。苞を下げながら堤を下りればそこは田の中の道。大体川沿いには田んぼが広がっているもので、川の堤を下りれば、そこは田んぼの中の道だ。この句を聞いて芭蕉がどんな顔をしたか見ものだ。
 十二句目。

   抱込で松山廣き有明に
 あふ人ごとの魚くさきなり   芭蕉
  (抱込で松山廣き有明にあふ人ごとの魚くさきなり)

 有明の松山を末の松山のような海辺の景色として、夜の漁から戻ってきた漁師を付けたのだろうか。今日も大漁だったのだろう。みんな魚くさい。漁師と言わずに「魚くさき」だけで匂わす、文字通りの匂い付けだ。
 土芳の『三冊子』に、

  「抱込て松山廣き有明に
  あふ人毎に魚くさきなり
 同じ付也。漁村あるべき地と見込、その所をいはず、人の躰に思ひなして顯す也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130~131)

とある。
 二十四句目。

   このごろの上下の衆のもどらるる
 腰に杖さす宿の気ちがひ    芭蕉
 (このごろの上下の衆のもどらるる腰に杖さす宿の気ちがひ)

 ここで言う「気ちがい」は、多分自分がいっぱしの武将であるかのような誇大妄想を持った男だろう。腰に刀の代わりの杖を差して、江戸や上方に行っていた衆が戻られたと、主人に報告する。
 多分この宿場町やその周辺の人ならだれもが知る有名人で、「ああ、またやっている」という反応なのだろう。前句をその狂人の言葉とする。
 土芳の『三冊子』に、

  「頃日の上下の衆の戻らるゝ
  腰に杖さす宿の氣違ひ
 前句を氣違ひ狂ひなす詞と取なして付たる也。衆の字ぬからず聞ゆ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

とある。
 二十九句目。

   分別なしに恋をしかかる
 蓬生におもしろげつく伏見脇     芭蕉
 (蓬生におもしろげつく伏見脇分別なしに恋をしかかる)

 前句の去来の句の「分別なしに」が何とも説教臭い。
 そこで芭蕉は『源氏物語』の源氏の君が末摘花の所に通う場面を俤として、京の田舎の伏見に通う男の姿と重ね合わせる。
 伏見の撞木(しゅもく)町には遊郭があったが規模も小さく高級な遊女がいるわけでもなく、京のあまり金のない男が徒歩で遊びに行くようなところだった。
 延宝九年刊の『都風俗鑑』(作者未詳)には、

 「京とは其道二里、所によりて三里の所もありといへども、千里も磁石にて、思ふ心を知るべとして、夕に通ひ朝に帰る輩、繁くもなく薄くもなく、稲荷街道にはちらちらと駕籠の絶ゆる事なし。」(『仮名草子集』新日本古典文学大系74、渡辺守邦、渡辺憲司校注、一九九一、岩波書店)

とある。
 伏見は豊臣秀吉が桃山城を立てて一度は栄えたが、その後荒れ果てていた。井原西鶴の『日本永代蔵』巻三「世は抜取り観音の眼まなこ」に、当時の伏見の様子が描かれている。

   「その時の繁盛に変り、屋形の跡は芋畠(いもばたけ)となり、見るに寂しき桃林に、花咲く春は人も住むかと思はれける。常は昼も蝙蝠(かうふり)飛んで、螢(ほたる)も出づべき風情(ふぜい)なり。京街道は昔残りて、見世(みせ)の付きたる家もあり。片脇は崩れ次第に、人倫絶えて、一町に三所(みところ)ばかり、かすかなる朝夕の煙、蚊屋なしの夏の夜、蒲団(ふとん)持たずの冬を漸(やうやう)に送りぬ。」

 酒の町として甦るのはもう少し後の事だ。
 三十四句目。

   吸物で座敷の客を立せたる
 肥後の相場を又聞てこい    芭蕉
 (吸物で座敷の客を立せたる肥後の相場を又聞てこい)

 米どころというと、今は新潟だったり宮城や秋田だったり、結構北のほうが有名だが、江戸時代前期ではまだ耐寒性のある品種が少なく、これらの地域は雑穀中心だった。
 米相場を左右するのは温暖な地方で大きな平野のある所。もちろん最大の米どころは濃尾平野だろうが、肥後熊本も重要な産地の一つで米相場の指標ともされていた。元禄十一年に支考が『梟日記』の旅で長崎に行った時の「三味線に」の巻が、去来・卯七編『渡鳥集』に収録されているが、その七句目にも、

   雨があがればちと用もあり
 肥後米は石で八十三匁     先放

の句がある。
 大阪の大きな米問屋ともなると、米相場の動向に常にアンテナを張り巡らし、ぴりぴりしていたのだろう。座敷で宴会などやっている隙もない。早々に切り上げて、すぐに使者を熊本へ走らせ、熊本の作付け状況を調べに行かせたりする。
 立たせた客を忙しい米問屋の使い走りと見た、位付けの句になる。

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