今日は小野路宿と野津田公園を散歩した。小野路の裏の里山はけっこう広く、道はわかりにくい。小野路浅間神社からは富士山が見えた。狛犬は平成の岡崎型。
小野路城址の方を通って野津田公園の方へ出た。 FC町田ゼルビアの立派スタジアムがあった。その脇には小さなバラ園があった。
岩波の『仮名草子集』の「都風俗鑑」第三は野郎歌舞伎の話だった。
平和な時代になって、それまで軍で消費されていた男が戦死しなくなると、当然ながら男性人口が膨れ上がり、職が不足する。そうなるとまず男の遊女化が生じる、それが衆道歌舞伎だった。それが禁止されて出来たのが野郎歌舞伎だった。これも遊郭と同様、芝居小屋が隆盛を極めると、関連産業を生み出し、男性の雇用もそこに吸収される。
男女ともファッション産業とそれを支える教養が新たな産業となり、出版もその一つだし、俳諧もその一翼を担うことになる。
第四は湯女、茶屋女などその他の風俗の話だった。江戸時代の消費社会はまず風俗からと見ても良いのか。そして武家もまた幕府に歯向かう意図がないことを示すために、武道よりもむしろ遊びに詳しいことがステータスにもなった。
あと、異世界の経済というのを考えてみた。異世界も基本的に前近代の多産多死社会だとしての話だ。その方が理解しやすい。
基本的に生産性の低い所に常にそれを上回る子供が生まれて来る。ただ、我々の世界と違うのは、魔法が存在するということで女性も戦力になるということと、村の周囲に常に魔物が現れることで、冒険者という特殊な職業が存在するということだ。
そこで男は軍隊に入って戦争をし、女は遊女になるというところに、冒険者というもう一つの選択肢が存在することだ。そして軍隊や冒険者に必要なアイテムを生産するということで、生産職というのも選択肢に入る。その原料を調達したり出来上がった商品を輸送したりするところに商人が活動する。そこに都市が維持される。
ただ、冒険者というのも使い捨ての命で、所帯を持って平和に暮らしたいというのは概ね死亡フラグになる。多くは子孫を残すこと無く死ぬと見ていい。
遊女に関しては『異種族レビュアーズ』によるなら、魔法で避妊ができるため、我々の世界の遊女よりは恵まれている。
また、戦争が絶えないのは我々の世界の前近代と同じだし、絶えず侵略の機会をうかがい、侵略した地の住人を奴隷化するなども共通しているが、我々の世界が人類ただ一種なのに対し、異世界には様々な亜人の種族が存在する。
特に繁殖力の強いゴブリンやオークは嫌われることになる。
多くの場合人間と亜人とが分断され、人間の王と魔王との対立が存在する。ただ、両勢力の緩衝地帯には人間と亜人が共存する街も存在する。
『転生したらスライムだった件』のテンペストの繁栄はひとえに未開の地だったジュラの森の開拓によるもので、ただ、ジュラの森も無限に広いわけではない。開拓が飽和状態になった時、今の平和が維持できるのかという疑問はある。
我々の世界ではもはや未開の地はない。大規模な開拓は地球生態系を乱すことになる。多くの未開地を残す前近代の異世界だから可能なものだ。
さて、昨日の続き。
これも同じ頃で、『猿蓑』に収録された「灰汁桶の」の巻も興行された。
発句は、
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆
で、『猿蓑』を代表する作者となった凡兆の俳諧での登場となる。
灰汁(あく)は染色の際に使つかう媒染液で、椿や榊を燃やした灰を水で溶いた上澄を用いる。染料につけた布を灰汁に浸して固定するのだが、その作業中に干した布の雫が灰汁桶(あくおけ)にぽとぽと垂れたりしていたのだろう。
昼間に染色した布を干して掛けておいて、その雫の音も止むころ、コオロギの声が聞こえてくる。「きりぎりす」はかつてはコオロギのことだった。
きりぎりす鳴なくや霜夜のさむしろに
衣かたしきひとりかも寢む
藤原良經(新古今集)
の心を「灰汁桶」という卑近な題材で表現している。
芭蕉の脇は、
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
(灰汁桶の雫やみけりきりぎりすあぶらかすりて宵寝する秋)
「あぶらかすりて」というのは行灯の油が減って底を尽くことで、油がなくなったので仕方がない、まだ宵の口だがもう寝るか、という句。
発句、脇ともに興行の挨拶の意味合いはなく、発句の情に合わせて付けている。
五句目。
ならべて嬉し十のさかづき
千代経べき物を様々子日して 芭蕉
(千代経べき物を様々子日してならべて嬉し十のさかづき)
「子日(ねのび)」というのは正月の最初の子の日のお祝いのことで、昔は正月が来ると一つ歳を取ったために、長寿の祝も兼ねての祝とされてきた。十人十色にそれぞれ歳を重ねてのお祝い。
「嬉」に「千代経(ちよふ)べき」と祝言を付け、盃の「十」という数に「様々」を付け、四手よつでにびしっと付けている。
十句目。
ゆふめしにかますご喰へば風薫
蛭の口処をかきて気味よき 芭蕉
(ゆふめしにかますご喰へば風薫蛭の口処をかきて気味よき)
カマスゴを夕飯に食う人を農夫の位で付けている。「風薫(かぜかをる)」も「気味よき」につながり、疎句だがしっかりと付いている。
ここでは「風薫」は終止形となる。「蛭」も微妙だが「昼」との掛詞になっていて、「ゆうめし」に振り返えれば昼は田んぼで蛭に食われて、今は仕事も終りくつろいで、その噛まれた跡を掻いて気味よきとつながる。
十三句目も位付け。
迎へせはしき殿よりのふみ
金鍔と人によばるる身のやすさ 芭蕉
(金鍔と人によばるる身のやすさ迎へせはしき殿よりのふみ)
前句の「殿」を文字通りり大名などに取り成して位で付ける。
金鍔(きんつば)というのは金箔をした豪華な刀の鍔のことで、それが転じて若殿に仕える老いた家老のことをいうようになったと言われている。
頼りない殿様に対し、実権を持もっている金鍔は、何不自由なくいつもどっしりと構えていて、かえって殿様の方が何かあるたびに頼ってきて、文をよこして、早く来てくれと言う。
十七句目は俤。
何を見るにも露ばかり也
花とちる身は西念が衣着て 芭蕉
(花とちる身は西念が衣着て何を見るにも露ばかり也)
「露ばかり」に「花とちる」と付つけ、「西念(さいねん)」という架空の僧を登場させる。
ネットで西念を検索すると何人か出て来るが、特に有名な人はいないので、ここは架空の僧と見ていい。
おそらく西行のイメージなのだろうけど、あえて少し変える。
願わくは花の下にて春死なん
その如月の望月の頃
西行法師(山家集)
の歌の心であろう。
二十二句目。
冬空のあれに成たる北颪
旅の馳走に有明しをく 芭蕉
(冬空のあれに成たる北颪旅の馳走に有明しをく)
「有明(ありあか)し」は有明行灯のこととも、それよりやや大型のものとも言いう。有明行灯は枕元を照らすための小型の行灯で、寝ぼけてひっくり返さないように箱型をしている。
冬の木枯し吹きすさぶ宿では、旅人も寒くて心細かろうと、宿の主人の気遣かいで有明行灯を枕元に置いておいてくれたのだろう。
三十句目。
堤より田の青やぎていさぎよき
加茂のやしろは能き社なり 芭蕉
(堤より田の青やぎていさぎよき加茂のやしろは能き社なり)
かつて加茂川べりは一面の田んぼだったのか。「いさぎよき」に神道の清く明き心を読み取って、上賀茂・下賀茂神社を讃美する神祇の句へと展開する。
「やしろ」を二度にども反復し、「能き」などという単純な言い回しをするあたり、一見拙なそうな言い回しが、かえって素直で素朴な人の心を感じさせる。
十一月にはやはり『猿蓑』に収録された、
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ 去来
を発句とする歌仙が興行される。
「刷ぬ」は「かいつくろひぬ」と読む。「も」はこの場合「力も」で、特に何かと比較してということではないと思う。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「人も蓑笠に刷ふと、ひびかせたる也」とあるが、そこまで読んでも読まなくてもいい。
時雨の後の情景で、鳶が濡れた羽を繕うというところに、安堵感のようなものを感じればそれでいいのだと思う。
時雨というと、
世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇
の句もあり、冷たい時雨はそれを逃れた時に逆にぬくもりを感じさせる。 興行開始の挨拶としても、「いやあ、時雨も止みましたな、それでは俳諧をはじめましょう」ということだと思う。とくに鳶の姿が見えたとか、そういうことではなかったと思う。
脇。
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
(鳶の羽も刷ぬはつしぐれ一ふき風の木の葉しづまる)
発句が時雨の後の情景なので、それに答えるべく風も吹いたけど今は静まっている、と付ける。前句の安堵感に応じたもので、響き付けといえよう。『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)の「かいつくろいぬに、しづまると請たり。」でいいと思う。
土芳の『三冊子』には、
「木の葉の句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込て、発句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」
とある。「ほ句の前」というのは、一ふき風の木の葉もしずまったので、鳶の羽も刷ぬという意味。
発句と脇との会話という点では、
「いやあ、時雨も止みましたな、鳶の羽もかいつくろってることでしょう、それでは俳諧をはじめましょう。」
「そうですね、木の葉を一吹きしていた風もおさまったことですし。」
というところか。
「木の葉」は今は木の葉っぱ全般を指すが、古くは落ち葉のことを言うものだった。
五句目。
たぬきををどす篠張の弓
まいら戸に蔦這かかる宵の月 芭蕉
(まいら戸に蔦這かかる宵の月たぬきををどす篠張の弓)
「まいら戸(ど)」は「舞良戸」と書く。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、
「2本の縦框(たてかまち)の間に狭い間隔で横桟(よこさん)を渡し,それに板を打ちつけた引戸をいう。主として外まわり建具として用いられた。この形式の戸は平安時代の絵巻物にすでに描かれているが,当時は〈遣戸(やりど)〉と呼ばれていた。舞良戸の語源は明らかでなく,またその語が使用されるのも近世に入ってからである。寝殿造の外まわり建具は蔀戸(しとみど)が主で,出入口にのみ妻戸(つまど)(扉)が使われていた。遣戸の発生は両者より遅れ,寝殿の背面などの内向きの部分で使われはじめたがしだいに一般化し,室町時代に入ると書院造の建具として多く用いられるようになる。」
とある。書院造りは武家屋敷か立派なお寺を連想させるが、蔦這かかるとなれば、既に廃墟と化している。
月夜に豪邸に招かれて、酒池肉林の宴をしていると、誰かが篠弓を掻き鳴らしながらやってきて、すると魔法が解けたかのように本来の廃墟に戻ってしまう。さては狸に化かされたか、そんな物語が浮かんでくる。
『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、「昔は富貴也ける住、荒て狐狸の類ひも徘徊すれば、今宵はと篠竹に弓の形ヲこしらへ侍るにや。」とある。
狐などの怪異ネタは談林の頃からあったが、蔦の這いかかる情景だけでそれを匂わすのが新しい。
十句目。
何事も無言の内はしづかなり
里見え初て午の貝ふく 芭蕉
(何事も無言の内はしづかなり里見え初て午の貝ふく)
前句の「無言」を無言行を修ずる修験者に取り成す。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には、
「前を峰入の行者など見さだめて、羊腸をたどり、人里を見おろす午時の勤行終わりしさまと見えたり。又柴灯といふ修法ありて、無言なりとぞ。午の時に行終りて下山する時、貝を吹なり。」
とある。
無言行の時は静かだが、終ればほら貝を吹く。
十三句目。
芙蓉のはなのはらはらとちる
吸物は先出来されしすいぜんじ 芭蕉
(吸物は先出来されしすいぜんじ芙蓉のはなのはらはらとちる)
前句の芙蓉は蓮の美称で池が連想されるので、そこから熊本の水前寺、そこの名物の水前寺海苔の吸物と展開する。
水前寺という寺はウィキペディアによれば平安末期に焼失したという。一般に水前寺といわれるのは熊本藩細川氏の細川忠利が一六三六年(寛永十三年)頃から築いた「水前寺御茶屋」のことで、細川綱利の時に庭園として整備された。今日では水前寺成趣園と呼ばれている。
後に支考が『梟日記』の旅で熊本に立より、
苔の名の月先凉し水前寺 支考
と詠んでいる。
二十五句目は恋句。
隣をかりて車引こむ
うき人を枳穀垣よりくぐらせん 芭蕉
(うき人を枳穀垣よりくぐらせん隣をかりて車引こむ)
枳穀垣(きこくがき)はカラタチに生垣のこと。棘のある木は防犯効果もあるので、生垣によく用いられた。
来て欲しくない人が通ってきたので、隣に車を止めさせて枳穀垣をくぐらせてやろうか、というものだが、それくらいしてやりたいということで実際にはしないだろうな。
三十句目。
青天に有明月の朝ぼらけ
湖水の秋の比良のはつ霜 芭蕉
(青天に有明月の朝ぼらけ湖水の秋の比良のはつ霜)
比良は琵琶湖西岸の山地で、比叡山より北になる。
月に湖水、朝ぼらけに初霜と四つ手に付けている。そろそろ終わりも近いので、このあたりは景色の句で軽く流しておきたい所だろう。
琵琶湖に月といえば元禄七年の「あれあれて」の巻の十二句目、
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
も思い起こされる。
三十三句目は旅体。
ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ
押合て寝ては又立つかりまくら 芭蕉
(押合て寝ては又立つかりまくらぬのこ着習ふ風の夕ぐれ)
前句の布子は綿入れのことで、それに慣れて来る風、ということで旅の匂いを読み取り、「かりまくら(仮寝の意味)」を付けて旅体に転じる。
安い宿だと一つの部屋にこれでもかと詰め込んで、押し合いながら寝ることになる。
元禄三年は京都上御霊神社神主示右亭で行われた年忘れ九吟歌仙興行で終わる。
半日は神を友にや年忘れ 芭蕉
を発句とするもので、年末いろいろ忙しい時ですが、半日ほど割いて年を取るのを忘れて楽しみましょう、という挨拶になる。神社だから「神を友に」となる。
昔は初詣の習慣がなく、むしろ年末に神社へ行きお参りした。
十五句目。
猫のいがみの声もうらめし
上はかみ下はしもとて物おもひ 芭蕉
(上はかみ下はしもとて物おもひ猫のいがみの声もうらめし)
身分の高い人も身分の低い人も恋の悩みは一緒だ。それは猫だって変りはしない。
猫同士のいがみ合いでは上の方にいる猫の方が優位だという。塀の上下でいがみ合う猫を見て、人もまた身分の高い人も低い人もいがみ合い、物思いにふける。
猫と人を対比させた向え付けの一種だが、対立項の「人」を言外に隠すことで、響き付けといえよう。
二十二句目。
米篩隣づからの物語
日をかぞへても駕篭は戻らず 芭蕉
(米篩隣づからの物語日をかぞへても駕篭は戻らず)
前句の「米篩(こめふるふ)」というのは脱穀した籾のゴミを取り除く作業で、作業をしながら隣近所の人が集まって噂話をする。
その内容といえば、急にいなくなった誰かのこと。駕篭に乗って旅に出たけど、なかなか帰って来ない。何があったのやら。
三十一句目。
世は成次第いも焼て喰フ
萩を子に薄を妻に家たてて 芭蕉
(萩を子に薄を妻に家たてて世は成次第いも焼て喰フ)
「いも焼て」というと今ではサツマイモの焼き芋を連想するが、当時はまだサツマイモはない。里芋は今ではもっぱら煮て食うが、かつては櫛に刺して味噌田楽にしたようだ。
前句の場合は文無しで串に指して焚き火で炙っただけのような雰囲気だが、ここでは家を建てるくらいだから、それなりの味付けをしていたのだろう。芋というと徒然草第六十段の芋頭の僧都のことも思い浮かぶ。
妻子を持たずにひっそりと暮らす風狂物のようだが、「妻」は薄で葺いた屋根の妻とも取れる。
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