2021年11月9日火曜日

 今日は朝から雨。
 東京のコロナ新規感染者がまた増え始めたか。先月二十五日に飲食店の酒類を解禁して、ちょうど二週間くらいになる。一回でもワクチンを接種している人は78%。ということはノーワクが22%もいるということか。
 岩波の『仮名草子集』の「一休ばなし」の巻之三、巻之四の方は、面白そうなネタを最初に使い果たしたか、わりかし普通の禅僧の伝記になっている。
 禅は基本的には瞑想によって、習慣的に身に着いた先入観となっている見方を一度保留することで、対象に直に接するという、現象学的な真理の獲得と同じに考えていい。ただ、この真理は何にも囚われてないということ自体が真理であり、ハイデッガーの言うように「真理の本質は自由である」ということを見出すにすぎない。
 この自由を、自由な仮説の立案により仮説検証を繰り返せば、一定の真理の近似値となる学の体系を作り上げることができるが、大抵の場合はこの自由を再び怪しげな思想で覆ってしまうか、その場限りの面白い思い付きのために浪費してしまうものだ。一休は後者に属する。
 花は紅柳は緑で、世の中がすべてあるがまま、それが美しく輝く感覚は魅惑的で陶酔を生み出すが、言葉にした時にはそれが急速に色あせて行く。だから新しい言葉を生み続けなくてはならない。
 それを知っていたのが芭蕉で、気付かなかったのが支考ではなかったか。

 それでは昨日の続き。
 年が明けて元禄三年の二月六日、伊賀百歳亭で、

 鶯の笠落したる椿かな      芭蕉

を発句とする興行がなされた。百歳は「霜に今」の巻の百歳子。
 椿は花びらが散らず、花全体が落ちるため、落ちた椿は奇麗な色の花笠が落ちているように見える。それを春を告げる鶯が笠を落としたみたいだ、とする。

 鶯の笠にぬふといふ梅の花
     折りてかざさむ老いかくるやと
              源常(古今集)

などの古歌はあるが、梅の花だと縫い合わせなければないが、椿だとそのまま笠にできそうだ。
 特に興行開始の挨拶としての寓意はない。
 十句目。

   俤に妹が袷をうへに着て
 夢さへ酒に二日酔する      芭蕉
 (俤に妹が袷をうへに着て夢さへ酒に二日酔する)

 前句を袷を着た妹が夢に出てきたことにする。
 昨日の酒がまだ残っているように、夢もまだ過去の幸せだった日々に酔っている。
 十九句目。

   藤むらさきにさまざまの蝶
 春の色新古今こそあはれなり   芭蕉
 (春の色新古今こそあはれなり藤むらさきにさまざまの蝶)

 前句の藤を藤原氏として、歌学が藤原氏に独占されていったことを風刺した句であろう。二条家も冷泉家も藤原北家に属する。
 蕉門が歌学のように一つの家で独占されることのないように、芭蕉は芭蕉庵の後継者を立てなかった。許六の「血脈」も許六が勝手に言っていること。
 二十五句目。

   泣てゐる子のかほのきたなさ
 宿かして米搗程は火も焼ず    芭蕉
 (宿かして米搗程は火も焼ず泣てゐる子のかほのきたなさ)

 唐臼ではなく杵で搗く作業だろう。粉塵が飛ぶから火を焚かないということか。泣いてる子の顔も汚れる。
 粉塵爆発の危険は当時の人も経験的に知っていたのだろう。

 同じ春の「日を負て」の巻の第三。

   たれ摘ミ残す菊のひと畑
 柳さす北の垣根の雪掃きて    芭蕉
 (柳さす北の垣根の雪掃きてたれ摘ミ残す菊のひと畑)

 垣根に柳を指すのは清明節の中国式の祝い方で、前句を中国の隠士、陶淵明などの俤とする。
 柳は垣根に挿す柳で、庭に柳の木を植えたという五柳先生(陶淵明)の連想を誘いはするが、特に故事などもなく、本説ではない。
 連歌や古い俳諧では本説をそのまま付けることが多かったが、やがて元ネタと少し変えるようになり、それをさらに進めて、元ネタはないが何となくその人っぽいというところで俤付けになる。
 八句目。

   きぬた聞折々おもふ江戸の妻
 泪ではつる閏あるとし      芭蕉
 (きぬた聞折々おもふ江戸の妻泪ではつる閏あるとし)

 閏月のある年は一年が十三か月になる。この一か月の差が余計悲しくなる。

 同じ春、半残亭でも歌仙興行がある。
 発句は、

   春興
 種芋や花のさかりに売ありく   芭蕉

で、里芋は秋から冬に収穫すると地下一メートルの深さに埋めて保存し、春に掘り起こして種芋として用いる。元禄七年夏の「夕㒵や」の巻十八句目に、

   花の香に啼ぬ烏の幾群か
 土ほりかへす芋種の穴      惟然

の句がある。桜の季節がちょうどその頃だったようだ。
 里芋は仲秋の名月に供えるもので、芋名月とも呼ばれる。その芋の種芋を準備がちょうど桜の季節になることで、花の句でありながら、言外に名月を匂わせる。
 今は花の盛りだが、この時分に種芋を売り歩く人がいるように、われわれもこの花の中で月のことも気にかけましょうというメッセージも込められている。
 六句目。

   有明の七つ起なる薬院に
 ひさごの札を付わたしけり    芭蕉
 (有明の七つ起なる薬院にひさごの札を付わたしけり)

 施薬院は奈良時代に設置された令外官である庶民救済施設だったが、中世以後は形骸化していた。おそらく薬院が実際に機能していたのは主に薬草などの栽培だったのではないかと思う。
 誰もが知っている瓢箪にわざわざ「ひさご」という札を付けているあたり、今の植物園とそれほど変わりない。
 九句目は神話ネタで、

   小僧のくせに口ごたへする
 やすやすと矢洲の河原のかち渉り 芭蕉
 (やすやすと矢洲の河原のかち渉り小僧のくせに口ごたへする)

と、前句の小僧を素戔嗚尊として、天の安河原の宇気比(誓約)とする。
 素戔嗚尊は、海原の支配を命じられたのに黄泉の国へ行くと口答えし、姉の天照大神に会おうとやってきて天の安河原の宇気比(誓約)を行う。このあとさんざん悪さをして、天岩戸になる。
 二十二句目は被差別民ネタ。

   からうすも病人あればかさぬ也
 ただささやいて出る髪ゆひ    芭蕉
 (からうすも病人あればかさぬ也ただささやいて出る髪ゆひ)

 髪結(かみゆひ)はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「髪を結う職人。平安・鎌倉時代には男性は烏帽子(えぼし)をかぶるために簡単な結髪ですんでいたが,室町後期には露頭(ろとう)や月代(さかやき)が一般的になり,そのため,結髪や月代そりを職業とする者が現れた。別に一銭剃(いっせんぞり),一銭職とも呼ばれたが,これは初期の髪結賃からの呼称とされる。また取りたたむことのできるような簡略な仮店(〈床〉)で営業したことから,その店は髪結床(かみゆいどこ),〈とこや〉と呼ばれた。近世には髪結は主に〈町(ちょう)抱え〉〈村抱え〉の形で存在していた。三都(江戸・大坂・京都)では髪結床は,橋詰,辻などに床をかまえる出床(でどこ),番所や会所の内にもうける内床があるが(他に道具をもって顧客をまわる髪結があった),ともに町の所有,管理下におかれており,江戸で番所に床をもうけて番役を代行したように,地域共同体の特定機能を果たすように,いわば雇われていた。そのほか髪結には,橋の見張番,火事の際に役所などに駆け付けることなどの〈役〉が課されていた。さらに髪結床は,《浮世床》や《江戸繁昌記》に描かれるように町の社交場でもあった。なお,女の髪を結う女髪結は,芸妓など一部を除いて女性は自ら結ったことから,現れたのは遅く,禁止されるなどしたが,幕末には公然と営業していた。」

とある。全部ではないにせよ被差別民がやる場合が多かったのではないかと思う。
 この場合は道具をもって顧客をまわる方の髪結であろう。病人がいるところでは髪を結う必要が何ので、玄関でひそひそとその状況を伝えられ、出て行く。
 『俳諧次韻』「世に有て」の巻十三句目に、

   枯ゆく宿に冬子うむ犬
 髪結の住けん庭は蓬して     揚水

の句がある。髪結いの生活の様子がうかがわれる。
 二十五句目は恋句。

   冬至の縁に物おもひます
 けはへどもよそへども君かへりみず 芭蕉

 化粧しても着飾っても君は振り向いてくれない。前句の恋の悩みの内容とする。
 三十句目。

   田鼠の稲はみあらす月澄て
 風ひえそむる牛の子の旅     芭蕉
 (田鼠の稲はみあらす月澄て風ひえそむる牛の子の旅)

 牛の子の旅は遠回しな言い方だが、要するに売られて行くということであろう。風が冷たい。

 三月二日には伊賀で、

 木の本に汁も膾も桜哉      芭蕉

を発句とする興行が行われる。この時は半歌仙で終了し、後に二つの異なる後半部分が付け足されたと思われる。
 そして、三月の終わりには同じ発句で近江で珍碩(洒堂)・曲水との三吟興行が行われ、珍碩編の『ひさご』に収録されることになる。
 発句は二重の意味があり、一方では比喩としてメインディッシュではない汁や膾も桜の木の下では花見のご馳走であるように、金持ちも貧乏人も武士も町人も花の下では見た身分わけ隔てなく平等になる、という理想が込められている。
 これはいわば「花見」の本意本情でもあり、芭蕉の花見の句ではほぼ一貫したテーマだといっていい。
 三月二日の興行の時の脇は、

   木の本に汁も膾も桜哉
 明日来る人はくやしがる春    風麦
 (木の本に汁も膾も桜哉明日来る人はくやしがる春)

で、脇の内容はそのまんまの意味で、特に解説を加える必要はないだろう。
 付け方という点では、前句の既に桜の散り始めた情景を受けて、特に付け合いとなる景物を出すこともなく、ただ思ったことをそのまま句にする。これは意味で付く「心付け」といっていいだろう。「こころ」という日本語は特に心情と関係なく、単に「意味」を意味する場合もある。
 末尾の「春」は「放り込み」と呼ばれるもので、季題が入らない内容のときに、こうやって無理やり後付の季語を放り込んだりする。
 六句目は悪い句ではないがちょっと微妙。

   草枕此ごろになき月の晴
 猿のなみだか落る椎の実     芭蕉
 (草枕此ごろになき月の晴猿のなみだか落る椎の実)

 「月」に「猿」は付け合いなので、これは物付けになる。ただ、猿そのものを登場させるのではなく、落ちてくる椎の実を猿の涙かと疑う。
 猿といえば、前年の冬に、

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也   芭蕉

の句を詠んだばかりだ。
 旅の途中、山越えの道に入ると猿と遭遇することも珍しくはなかったのだろう。「猿の声」は漢詩では古人を断腸の思いにさせる物悲しいものとされている。漢文ではニホンザルのようなマカクは「猴」の字を書き、「猿」の字はテナガザルを表す。テナガザルは夜明け前にロングコールを行い、それが哀調を帯びているのだが、残念ながら日本で聴くことはできない。
 猿の声の悲しさはそれゆえ日本では想像上のもので、俳諧のようなリアルさを追及するものでは、声でないもので猿の物悲しさを言い換える必要があった。
 猿の涙は、『奥の細道』の旅の途中、那須黒羽での興行で、

    洞の地蔵にこもる有明
  蔦の葉は猿の泪や染つらん    芭蕉

の句にも見られる。これも月に猿を付けた句で、しかも猿そのものを登場させるのではなく、蔦の葉が染まるのを見て猿の涙が染めたのかと疑う所も一緒だ。
 そういうわけで、悪い句ではないが使いまわしの感がなくもない。
 十一句目。

   木わたあたりの雪の夕ぐれ
 売庵をみせんと人の道びきて   芭蕉
 (売庵をみせんと人の道さびて木わたあたりの雪の夕ぐれ)

 木幡は木幡山の周辺の地域全体も指し、今の京都市伏見区だけでなく、宇治市にもまたがっている。宇治といえば都の巽(たつみ)、

 わが庵は都のたつみしかぞすむ
     世をうぢ山と人はいふなり
              喜撰法師『古今集』

だ。
 これは本歌というよりは宮本三郎の註にあるように、「雪→冬籠る庵」「宇治→我庵」という『類船集』の付け合いによるもので、物付けと見た方がいい。
 宇治でただ庵で隠棲する人を付けても俳諧ではないので、あえて「売り庵」として、隠棲やーめたって人の句にしている。
 実はこのあと芭蕉は近江へ行くが、そこで空き家になった庵を借りて住むことになる。それが幻住庵だった。ひょっとしたらその辺りの楽屋ネタだったのかもしれない。

 さて三月の終わり頃、同じ発句で珍碩・曲水との三吟が行われる。
 脇は、

   木のもとに汁も鱠も桜かな
 西日のどかによき天気なり    珍碩

 (木のもとに汁も鱠も桜かな西日のどかによき天気なり)

 発句に対してあまり自己主張せずに穏やかに和した所は、脇句の見本なのだろう。

 ひさかたのひかりのどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
              紀友則(古今集)

の心か。前句の「汁も鱠も桜かな」に花の散る様を読み取って、本歌で付けたと言っていいだろう。
 十句目、

   入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
 中にもせいの高き山伏     芭蕉
 (入込に諏訪の涌湯の夕ま暮中にもせいの高き山伏)

は芭蕉の得意とするあるあるネタ。こういう山の中の温泉にいくと必ずいそうな人をすかさず出してくる。
 土芳の『三冊子』「あかさうし」には、「前句にはまりて付たる句也。其中の事を目に立ていひたる句なり。」とある。
 十三句目は恋句。

   ほそき筋より恋つのりつつ
 物おもふ身にもの喰へとせつかれて 芭蕉
 (物おもふ身にもの喰へとせつかれてほそき筋より恋つのりつつ)

 前句は相手のちょっとしたことを自分に気があると勘違いして恋心をつのらすということで、そこからストーカーになることも多い。
 芭蕉の句はストーカーから一転して拒食症へ持って行く。「ほそき」を痩せ細ると掛けているあたりも芸が細かい。前句の男の体を女の体の取り成すのは定石。
 十六句目。

   秋風の船をこはがる波の音
 雁ゆくかたや白子若松     芭蕉
 (秋風の船をこはがる波の音雁ゆくかたや白子若松)

 お伊勢参りと直接は言わず、白子若松という伊勢街道の地名を持ち出すことで匂わす。そうなると、前句の船は七里の渡ということになる。秋は台風シーズンで波の高い日が多い。
 『三冊子』「あかさうし」には、「前句の心の余りを取て、気色に顕し付たる也、」とある。船を恐がる人を旅慣れてないお伊勢参りの人と見て、その不安を直接述べずに、雁行く遥か彼方の伊勢街道に具現化したといっていいだろう。
 十九句目。

   巡礼死ぬる道のかげろう
 何よりも蝶の現(うつつ)ぞあはれなる 芭蕉
 (何よりも蝶の現ぞあはれなる巡礼死ぬる道のかげろう)

 『荘子』の「胡蝶の夢」は有名だが、胡蝶の現(うつつ)とは如何に。
 「胡蝶の夢」というのは荘周が夢で胡蝶となった飛んでた所で目が覚めて、はたしてどっちが夢やらという話だが、まあ、普通に考えれば、いくらリアルな夢を見ていても夢と現実の区別くらいはつく。蝶になってたのが本当の姿で、今ここにいる人間としての自分は夢なんだなんて、哲学的な仮定としては可能だが普通の人からすればどうでもいいことだ。
 巡礼者の死はまぎれもなく現実であり、決して彼が蝶になったわけではない。そんな話は慰めにもならない。死は現実で蝶が飛んでるのもあくまで現実だ。現実だから哀れで悲しい。
 もっとも、これはあくまで俳諧で、前句の巡礼者の死もありそうだというだけの作り話だが、虚をもって実を行うのが俳諧だ。
 二十五句目。

   酒ではげたるあたま成覧
 双六の目をのぞくまで暮かかり 芭蕉
 (双六の目をのぞくまで暮かかり酒ではげたるあたま成覧)

 まあ、禿げネタに芭蕉さんもどう展開していいか悩んだのではなかったか。
 「双六」は今で言うバックギャモンの遠い親戚のようなもので、昔は主に賭け事に用いられた。鳥獣人物戯画でも双六盤を担ぐ猿の姿が描かれている。前句の酒ばかり飲んでる禿げ爺さんを博徒と見ての付けになる。位付けといっていい。
 『三冊子』「あかさうし」には、「気味の句也。終日双六に長ずる情以て、酒にはげぬべき人の気味を付たる也。」とある。「気味」は「匂い」とほぼ同じ。頭がはげるまで飲み続けるような人は、日が暮れるまで双六を続けるような人でもある。
 二十八句目。

   中々に土間に居れば蚤もなし
 我名は里のなぶりもの也    芭蕉
 (中々に土間に居れば蚤もなし我名は里のなぶりもの也)

 まあ要するにハブられている(村八分にされている)わけだが、それで平然と開き直れるのは、やはり一本筋の通った人物だろう。なかなか力強い一句だ。
 『三冊子』「あかさうし」にはこうある。

  「能登の七尾の冬は住うき
 魚の骨しはぶる迄の老を見て
 前句の所に位を見込、さもあるべきと思ひなして人の体を付たる也。
   中々に土間にすはれバ蚤もなし
 わが名は里のなぶり物也
 同じ付様也。
   抱込て松山広き有明に
 あふ人毎に魚くさきなり
 同じ付也。漁村あるべき地と見込、その所をいはず、人の体に思ひなして付顕す也。」

   能登の七尾の冬は住うき
 魚の骨しはぶる迄の老を見て  芭蕉

の句は元禄三年六月、つまり「木のもとに」の巻の二ヵ月後、京都の凡兆宅で巻いた「市中は」の巻の十一句目で、『猿蓑』に収録されている。前句の能登の七尾からいかにもそこにいそうな老人を付けている。

   抱込て松山広き有明に
 あふ人毎に魚くさきなり

の句は元禄七年閏五月、京で巻いた「牛流す」の巻の十二句目。同じく漁村の風景にその場にいそうな魚臭い人を登場させる。漁師と言わずに「魚くさき」というだけで漁師を文字通り匂わせている。
 「我名は里の」の句はいつも土間にいる人からハブられている匂いを嗅ぎ取り、そういう人の言いそうな言葉を付けている。
 この巻の十句目の

   入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
 中にもせいの高き山伏     芭蕉

も、いかにもその場にいそうな人の付けだが、これを山伏と言わずして山伏を匂わせる表現ができたなら匂い付けということになるのだろう。
 三十一句目。

   月夜月夜に明渡る月
 花薄あまりまねけばうら枯て  芭蕉
 (花薄あまりまねけばうら枯て月夜月夜に明渡る月)

 月にススキは付き物で、今でも十五夜にはススキが欠かせない。
 風にそよぐススキの穂が手招きしているように見えることは、

 秋の野の草の袂か花薄
     穂に出でて招く袖と見ゆらむ
             在原棟梁(古今集)
 我が心ゆくとはなくて花すすき
     招くを見れば目こそとどまれ
             和泉式部(和泉式部集)
 ゆく人を招くか野辺の花すすき
     こよひもここに旅寝せよとや
             平忠盛(金葉集)

などの古歌に歌われている。

   毒海長老、我が草の戸にして身まかり侍るを葬りて
 何ごとも招き果てたる薄哉   芭蕉(続深川集)

は貞享の頃の句とされている。招きすぎて招き果ててしまうと、あとは枯れて逝くのみ。月夜が続き月に夜を明かしているうちにも死は忍び寄ってくる。
 三十四句目。

   一貫の銭むつかしと返しけり
 医者のくすりは飲ぬ分別    芭蕉
 (一貫の銭むつかしと返しけり医者のくすりは飲ぬ分別)

 前句の「返しけり」をお金ではなく薬のこととする。
 薬の値段が一貫だったため、ちょっと高いなと思い、それなら薬に頼らなくても自然に治るんじゃないかと思い、一貫はちょっと面倒だなとばかりに薬を返したのだろう。
 江戸後期の文政期だと大工さんの年収なんかがわかっているようだが、元禄期の一般的な庶民の収入はよくわからない。多分銭一貫は今の感覚だと数万円といったところで、ちょっと二の足を踏む値段ではなかったかと思う。芭蕉の句はそのあたりの機微を感じさせる。
 この巻は匂い付けが試みられているが、匂い付けが良いからと言って全部匂い付けにするようなことはしない。近代の理論ばかり先行の文学とは違い、芭蕉は古い付け筋も残しつつ、それに匂い付けを加えて行くという方法を取っている。新しい手法は付け筋の選択肢を増やすためだと言っていいだろう。

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