天気のいい日が続く。今日は生田緑地ばら苑へ行った。秋のバラ園はこれで二度目。そのあと久しぶりにクラフトビールを飲みに行った。みんなコロナ明けを待ちわびていたのか、結構混んでた。
ただ、コロナの方もまだ安心はできない。実効再生産数がこのごろ0.8を越えているし、このまま根絶するのは難しく、どこか片隅で命脈を保つ可能性が高い。今マスクを一斉に外してどんちゃん騒ぎをすれば、夜の街から再び感染拡大する可能性もある。
今日見たところではマスク飲食が守られていて、今のマスク生活が今後も維持されるなら、欧米のような再拡大は防げるのではないかと思う。
再拡大をしても、ワクチンだけでなく治療薬が充実してきて、重症者がほとんど出ないような状況になるなら、その時はコロナはただの風邪で、感染者数のカウントに意味はなくなるのではないかと思う。
では昨日の続き。
直江津では、
文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉
を発句とする興行が行われるが、曾良の『俳諧書留』にはニ十句までしかない。
この句は「文月の六日も常の夜には似ずや」の倒置で、七夕の前日のこの日には織姫彦星も明日の逢瀬の前にきっと特別な気分でいることであろう、と詠んでいる。
十二句目。
数々に恨の品の指つぎて
鏡に移す我がわらひがほ 芭蕉
(数々に恨の品の指つぎて鏡に移す我がわらひがほ)
「移す」は「映す」であろう。恨みの品を眺めながら、何か吹っ切れたのだろう。「何これ、もう笑っちゃうね。」という感じか。
十九句目。
蝶の羽おしむ蝋燭の影
春雨は髪剃児(ちご)の泪にて 芭蕉
(春雨は髪剃児の泪にて蝶の羽おしむ蝋燭の影)
芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のときに杜国と別れる際に送った句に、
白げしにはねもぐ蝶の形見哉 芭蕉
の句がある。その時のことを思い出したか。
ここでは稚児の美しかった髪を蝶の羽に喩え、出家による別れを惜しんでいる。
この頃芭蕉の体調がすぐれなかったか、興行は少ない。そのなかで、金沢では七月二十日少幻菴で興行が行われる。金沢に到着した時、芭蕉は一笑の死を聞かされ、これは少し遅いが初盆の追善半歌仙興行となる。発句は、
残暑暫手毎にれうれ瓜茄子 芭蕉
で、この句は後に、
ある草庵にいざなはれ
秋涼し手毎にむけや瓜茄子 芭蕉
の形で『奥の細道』の一句となる。
瓜や茄子は故人へのお供え物で、精霊棚にみんなそれぞれ皮をむいて故人に供え、故人と一緒に食べましょうということだろう。キュウリやナスで馬を作るようになったのは多分もっと時代の下った後のことだ。
実際には送り火も過ぎて精霊棚はなかっただろう。それでも気持ちとして今日は故人とともにこの興行を行いましょうという意味だったと思う。
「れうれ」は料理(れうり)を「料(れう)る」と動詞化した命令形で、名詞の動詞化は今日でも色々見られる。
まだ残暑の厳しい折だが、みんな一笑さんに手毎に瓜茄子を剥いてあげましょう、というのがこの発句の元の意味だった。
芭蕉の付け句は十四句目の、
ふたつ屋はわりなき中と縁組て
さざめ聞ゆる國の境目 芭蕉
(ふたつ屋はわりなき中と縁組てさざめ聞ゆる國の境目)
のみで、前句の「わりなし」を良い意味に転じている。国境までその噂が聞こえるほどの仲の良い二人に取り成す。
七月二十五日には小松で、
しほらしき名や小松ふく萩芒 芭蕉
を発句とする歌仙興行が行われる。
十二句目。
螓の行ては笠に落かへり
茶をもむ頃やいとど夏の日 芭蕉
(螓の行ては笠に落かへり茶をもむ頃やいとど夏の日)
「茶をもむ」というのは抹茶ではなく、唐茶とも呼ばれる隠元禅師がもたらした明風淹茶法で、『日本茶の歴史』(橋本素子、ニ〇一六、淡交社)には、
「『唐茶』には、中国から伝えられた茶の意味があるものと見られ、元禄十年(一六九七)に刊行された宮崎安貞の『農業全書』に、その作り方が記されている。そこには、鍋で炒る作業と、茣蓙・筵などの上で揉む作業とを交互に行うとある。
このように、隠元の茶については一次史料が残されてはおらず、はっきりとはわからないが、後世の展開状況からさかのぼって考えると、『鍋で炒る』と『揉む』行程を交互に行い製茶した『釜炒り茶』と同様のものではないかと見られる。」(p.143)
とある。
芭蕉の時代に急速に広まり、今の煎茶の元になる。
二十五句目。
かたちばかりに蛙聲なき
一棒にうたれて拝む三日の月 芭蕉
(一棒にうたれて拝む三日の月かたちばかりに蛙聲なき)
これは座禅のときの三十棒だろう。
江戸後期の人だが仙厓義梵の「蛙」という絵には「座禅して人が佛になるならば」と書き添えてある。座禅して人が佛になるなら、蛙だっていつも座っているからとっくに佛になっている、という意味なのだろう。蓮の葉の上に座る所から、鳥獣戯画でも蛙は仏様の姿で描かれている。
三十棒を受けても悟りに程遠い自分を、形ばかり座っている蛙に喩え、「喝!」と言われても声もなくお辞儀する。
三十句目。
わすれ草しのぶのみだれうへまぜに
畳かさねし御所の板鋪 芭蕉
(わすれ草しのぶのみだれうへまぜに畳かさねし御所の板鋪)
これは、
百敷や古き軒端のしのぶにも
なほあまりある昔なりけり
順徳院(続後撰集)
からの発想だろう。
元歌は軒端をしのぶだが、忘れ草しのぶも植え混ぜだから、御所に重ねられた畳に昔を忘れたり忍んだりするとする。
三十五句目。
聲さまざまのほどのせはしき
大かたは持たるかねにつかはるる 芭蕉
(大かたは持たるかねにつかはるる聲さまざまのほどのせはしき)
町は活気に溢れているが、その大半は賃金労働者だ。金を持っている奴に使われている。
宮本注は「なまじっか金を持っているばかりに、かえって人間が金のために使われて忙しい思をしている」としているが、当時の大方の人はそのなまじっかの金を持っていない。裕福な現代社会の発想だと思う。
翌二十六日には歓生邸で五十韻興行が行われる。ただし、二の懐紙に関しては真偽に関して疑いが持たれる。
発句は、
ぬれて行や人もおかしき雨の萩 芭蕉
で、この日は昼間は激しい雨が降り、夕方には止んだが、昼間の雨を引き合いに出して、雨の中をたくさんの人が集まり、さながら萩の原を行くようです、という挨拶の意味が込められている。
十二句目。
入相の鴉の声も啼まじり
歌をすすむる牢輿の船 芭蕉
(入相の鴉の声も啼まじり歌をすすむる牢輿の船)
「牢輿(ろうごし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 囚人を護送するために用いる輿。
※金刀比羅本保元(1220頃か)下「さしもきびしく打付たる籠輿(ロウゴシ)の」
とある。牢輿の船は護送船だろう。処刑の時も近く、辞世を勧める。
船ではないが、『懐風藻』の大津皇子に仮託された、
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕誰家向
黄金烏が棲むという太陽も西にある住まいへ沈もうとし、
日没を告げる太鼓の声が短い命をせきたてる。
黄泉の国への旅路は主人もいなければお客さんもいない。
この夕暮れは一体誰が家に向かっているのだろう。
の詩も思い浮かぶ。
八月四日、加賀の山中温泉で芭蕉、曾良、北枝による三吟興行が行われる。
体調不良のため曾良が芭蕉と別れ、先に伊勢に向かうことになっていて、そのための送別興行だった。
この歌仙については、芭蕉の指導の内容を北枝がメモした「山中三吟評語」が残されている。「曾良餞 翁直しの一巻」とも呼ばれている。
発句は、
発句
馬かりて燕追行別れかな 北枝
「馬かりて」は「馬駆りて」で、秋にツバメが南の島へ帰ってゆくのを、馬を駆り立ててでも追いかけていくような別れで、あなたが先に行ってもすぐに追いかけて行きますという意味になる。
曾良の脇、
馬かりて燕追行別れかな
花野みだるる山のまがりめ 曾良
(馬かりて燕追行別れかな花野みだるる山のまがりめ)
だが、「山中三吟評語」には、
花野に高き岩のまがりめ 曾良
「みだるゝ山」と直し給ふ
とある。
曾良の最初の作意からすると、燕を追いかけてついに追いつけなかったのを、山の険しさのせいだとした、「高き岩のまがりめ」が邪魔して見失ってしまったという付けだったのだろう。
芭蕉の方は、あくまで句の姿を重視して、「花野みだるる」とする。「みだるる」は咲き乱れるという意味でもあり、馬に踏み荒らされて乱れるという意味にもなれば、別れに悲しさに心が乱れるという意味にもなる。
芭蕉の第三、
花野みだるる山のまがりめ
月よしと角力に袴踏ぬぎて 芭蕉
(月よしと角力に袴踏ぬぎて花野みだるる山のまがりめ)
には、
月はるゝ角力に袴踏ぬぎて 翁
「月よしと」案じかへ給ふ。
とある。芭蕉も興行の途中で、いろいろ案じながら作っていたようだ。
この改作は句の調子の問題だろう。「よし」という言葉が力強い。
四句目
月よしと角力に袴踏ぬぎて
鞘ばしりしをやがてとめけり 北枝
(月つきよしと角力に袴踏ぬぎて鞘ばしりしをやがてとめけり)
評語
鞘さやばしりしを友のとめけり 北枝
「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る
この場合の「おもし」はいわゆる「軽み」の風とは関係なく、「とも」という人倫の言葉があることで、次の句の展開が大きく制約されるという意味での「おもし」だと思う。
「やがて」だと鞘走りを止めたのが友に限定されず、自分で止めたとしても良くなるし、複数の人間のいる状況だけでなく、一人でいる時の状況にもできる。次の展開の可能性が広がり、付けやすくなる。
句の意味は、相撲を取ったのはいいが、血気盛んな若者のことだから勝敗でもめて、ついつい刀に手を掛け威嚇する場面とする。
「鞘走り」は文字通りの意味だと、鞘から刀が自然に滑り落ちることだが、文字通りに取ったのでは正直すぎる。 土芳の『三冊子』に俳諧に使うべきでない言葉として、「人を殺す、切る、しばる」といった言葉を挙げているように、俳諧では暴力シーンが自主規制されていた。ここはやはり、かっとなって刀を抜こうとしたところを友が慌てて止めた、というところだろう。
五句目。
鞘ばしりしをやがてとめけり
青淵に獺の飛こむ水の音 曾良
(青淵に獺の飛こむ水の音鞘ばしりしをやがてとめけり)
評語
青淵に獺の飛こむ水の音 曾良
「二三疋びき」と直し玉たまひ、暫しばらくありて、もとの「青淵」しかるべしと有ありし。
曾良の句は物音がしたので、すわ、曲者!とばかりに刀に手をかけたが、なんだ川獺か、というありがちな句だが、一句が芭蕉の古池の句のパロディーになっている。この句も、前句が「友のとめけり」だったら思いつくこともなかった。自分で刀を元の鞘に収めたという解釈が可能になったからこそ、この句を付けることも出来た。
曾良のこの句の場合も、「青淵」がと舞台が深山を流れる清流に限定されているところが、芭蕉さんには重く感じたのかもしれない。「二三匹」だったら舞台は限定されないから、洋々と流れる大河の情景とすることもできる。
ただ、二三匹チャポンチャポンと川獺が跳ねて遊んでいる場面だと、刀に手をかけるだけの緊迫感が生まれず、何かほのぼのとしてしまうし、古池の句のパロディーの意味もなくなる。(芭蕉さんとしてはこのことが面白くなかったのかもしれないが。)結局他に代案もなくもとの形で治定された。
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