朝からどんより曇っていた。岩波の『古浄瑠璃 説教集』を読み終わったので、図書館へ行き、同じ新日本古典文学大系の『仮名草子集』を借りてきた。仮名草子といえば江戸時代前期のラノベ。岩波文庫の『竹齋』ならだいぶ前、『野ざらし紀行─異界への旅─』を書いた時に読んだ。
日本語は文字が多様で数も多く、活字には不向きな言語なので、朝鮮半島から持ち出した活字印刷機もほとんど活用されることがなく、代わりに木版印刷による出版が盛んになった。ただ、元和・寛永の頃に作られた古い仮名草子本は日本で独自に作られた古活字で刷られていた。
木版印刷は文字だけでなく絵も同じ版木に刻めるので、挿絵入りの本が早い時期から作られた。仮名草子もそうした豊富なイラストが売りだった。やがて挿絵が独立して絵だけで売るようになり、江戸後期の浮世絵文化が花開く元になった。
今日はまず「大坂物語」を読んだ。これは元和初年刊や寛永年間刊の古活字本が残っている。一字一字を活字にするのではなく、二三字連綿した形で活字にしているようだ。見た目は横の線が揃っていて普通の版木本に比べても綺麗に見える。ただし、挿絵はない。版木を掘るようになった寛文版は所々見開きの挿絵が入っている。
版木版のメリットは挿絵だけでなく、ルビを掘れるところにもある。これで漢字の苦手な人も読めるようになった。俳諧の方ではルビや様々な書体をミックスさせて遊ぶことも考えついた。
「大坂物語」は大坂冬の陣夏の陣の直後にその噂を寄せ集めて作ったドキュメントにも近いもので、三谷脚本の大河ドラマ『真田丸』のいくつかのシーンが思い浮かぶような作品だ。ただ視点は『真田丸』と逆になり、徳川方から見るから、「牢人どもの悪意見」で亡んだことになっている。
今日は旧暦九月二十六日で新暦では十月三十一日、午後からあいにくの雨になったが、渋谷のハローウィンは盛り上がらないかな。
『笈の小文』の旅を終えて『更科紀行』の旅に出る前の尾張の鳴海重辰亭で、「初秋は」の巻の歌仙興行が行われる。
発句は、
初秋は海やら田やらみどりかな 芭蕉
で、初秋の夕暮れの景で、秋風の吹く澄んだ霞むことない空気に強い西日があいまって、海の青も田の緑もキラキラまぶしいくらいに輝いて見える。
興行に来るまでの道すがら、見たままを詠んだ句であろう。後に、
初秋や海も青田も一みどり 芭蕉
に改作されている。全体の調子は整っているが「みどりかな」の初期衝動が死んでしまい、ただの初秋の句になってしまっている。筆者は初案の方がいいと思う。
十一句目は古典ネタで、
おもひ残せる遠の國がへ
琵琶弾て今宵は泣て明すべき 芭蕉
(琵琶弾て今宵は泣て明すべきおもひ残せる遠の國がへ)
白楽天の『琵琶行』で付ける。
今夜聞君琵琶語 如聴仙楽耳暫明
莫辞更坐弾一曲 為君翻作琵琶行
感我此言良久立 却坐促絃絃転急
凄凄不似向前声 満座重聞皆掩泣
座中泣下誰最多 江州司馬青衫濕
今夜は君が琵琶を弾きながらする物語を聞くとしよう。
仙楽を聴いているようで、耳は少しづつさえてくる。
遠慮しないで坐ってもう一曲弾いてくれ。
君のために「琵琶行」という詩に作り直してあげよう。
私がそういうとしばらく立っていたが、
再び坐り直すと絃を促し、激しくかき鳴らす。
凄凄として今まで聞いたのと違う声となり、
満座は重ねて聞いて、皆涙をおおう。
座中で最もたくさんの涙を滴らせたのは、
江州の司馬であった白楽天自身で、その青衫(せいさん)を濡らした。
国替えで遠い地へ行くなら、白楽天のように今夜は琵琶を弾いて泣き明かさなくてはならないね。最後の「べき」の一言で、白楽天の境遇への共感という重いテーマではなく、白楽天を真似てはどうか、という軽い意味になる。
十四句目は、
軒高き瓦の鬼のかげさびし
施餓鬼過たる入相の幡 芭蕉
(軒高き瓦の鬼のかげさびし施餓鬼過たる入相の幡)
は、鬼瓦の悪霊退散の心に施餓鬼を付ける。
施餓鬼はウィキペディアに、
「餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養することで、またそのような法会を指す。特定の先祖への供養ではなく、広く一切の諸精霊に対して修される。 施餓鬼は特定の月日に行う行事ではなく、僧院では毎日修されることもある。
日本では先祖への追善として、盂蘭盆会に行われることが多い。盆には祖霊以外にもいわゆる無縁仏や供養されない精霊も訪れるため、戸外に精霊棚(施餓鬼棚)を儲けてそれらに施す習俗がある、これも御霊信仰に通じるものがある。 また中世以降は戦乱や災害、飢饉等で非業の死を遂げた死者供養として盛大に行われるようにもなった。」
とある。盆の施餓鬼が過ぎるとお寺も静かになり、夕暮れ時は寂しげだ。
二十三句目。
けふ一七日戸帳ひらきて
かしこまる百首のうたをよみをはり 芭蕉
(かしこまる百首のうたをよみをはりけふ一七日戸帳ひらきて)
初七日の追善に百首歌を捧げる。
ちなみに芭蕉は元禄七年十月十二日に亡くなり、十八日の初七日には、
なきがらを笠に隠すや枯尾花 其角
を発句とする追善百韻興行が行われた。
二十九句目の、
魚つむ船の岸による月
露の身の嶋の乞食とくろみ果 芭蕉
(露の身の嶋の乞食とくろみ果魚つむ船の岸による月)
は島流しであろう。後鳥羽院の俤とも言えるが、普通の流刑人の姿とも見られる。
三十二句目は隠士の心で、
猿の子の親なつかしくさけびけむ
からすも鷺も柴の戸の伽 芭蕉
(猿の子の親なつかしくさけびけむからすも鷺も柴の戸の伽)
猿の叫ぶ山奥に一人隠棲すると、カラスもサギも友達で話し相手だ。
蕉風確立期の芭蕉らしい、古典の心を重視した句が並ぶ。
同じ頃七月二十日、名古屋長虹亭で荷兮、越人らを交えた歌仙興行が催される。
発句は、
粟稗にとぼしくもあらず草の庵 芭蕉
になる。
長虹は僧でお寺の中の草庵に住んでいたという。これはその印象をちょっと面白くいじった感じで詠んだのだろう。
八句目。
木の葉ちる榎の末も神無月
つて待かぬる嶋のくひ物 芭蕉
(木の葉ちる榎の末も神無月つて待かぬる嶋のくひ物)
本土では穀物の収穫は終わる頃だろう。いつ食料が届くかと島では待っている。
これも流刑人に思いを寄せたものか。流刑地ネタはやがて『奥の細道』の旅で、
荒海や佐渡によこたふ天の川 芭蕉
の句を生むことになる。この句は写生句ではなく、あの荒海はさながら牽牛織女にとっての天の川のように、佐渡島の前に横たわっているという、流刑地に思いを寄せた句だった。
二十四句目は恋を付ける。
さまざまの香かほりけり月の影
人一代の恋をとふ秋 芭蕉
(さまざまの香かほりけり月の影人一代の恋をとふ秋)
「人一代」は西鶴の『好色一代男』の一代と同じで、一人の人間の生涯の恋遍歴のことであろう。そこにはたくさんの女との出会い別れがあり、その都度違う香の薫りがあった。
やはり芭蕉もどこかで西鶴を意識していたのか。
二十九句目
下戸をにくめる雪の夜の亭
早咲のむめをわが身にたとへたり 芭蕉
(早咲のむめをわが身にたとへたり下戸をにくめる雪の夜の亭)
雪の夜に外で風流を楽しむ酒飲みは、自らを寒梅に喩える。
芭蕉も下戸で、薄めた白い酒しか飲めなかったし、桃隣が芭蕉の足跡を求めてみちのくへ「舞都遲登理」旅に出る時に、其角は、
餞別
饅頭で人を尋よやまさくら 其角
の句を送っている。
三十四句目は武家文化への風刺か。
明やすき夜をますらが腹立て
なにを鳴行ほととぎすやら 芭蕉
(明やすき夜をますらが腹立てなにを鳴行ほととぎすやら)
王朝貴族なら明け方に聞くホトトギスに風流を感じるところだが、武骨な益荒男は「なんだ、もう夜が明けちまったか」と腹を立て、せっかくのホトトギスも台無し。
江戸後期の国学のせいで「益荒男ぶり」が『万葉集』の歌風を表すポジティブな言葉になったが、芭蕉の時代の「益荒(ますら)」のイメージはこんなもんだった。
貞享五年の秋、芭蕉は越人を連れて『更科紀行』の旅に出ると、そのまま越人とともに江戸に戻る。九月上旬であろう。「しら菊に」の半歌仙が興行される。
その第三。
泥かぶりたる稲を干す屋根
月幾日海なき国に旅寐して 芭蕉
(月幾日海なき国に旅寐して泥かぶりたる稲を干す屋根)
これは越人とともに信州姥捨て山の月を見に行って、その足で江戸に帰ってきたことを思い起こしての句で、「ただいま」の挨拶になっている。発句と脇が当座の興でもなく、特に寓意もない時は、第三にこういう展開もありうる。
十六句目。
談義の場泣くはふじゆ上る人そうな
美しい子の膝にねぶりて 芭蕉
(談義の場泣くはふじゆ上る人そうな美しい子の膝にねぶりて)
前句を葬儀の際の談義として、諷誦上げる人は未亡人、膝の上には何も知らない子どもが眠っている。
死を理解できない小さな子供を出すことで、かえってその悲しみを際立たせる演出は、『源氏物語』桐壺巻が最初であろう。美しい子は光の君の俤になる。
この秋は『阿羅野』に収録される、越人の芭蕉、其角、嵐雪との両吟が巻かれる。芭蕉との両吟は、
深川の夜
雁がねもしづかに聞ばからびずや 越人
を発句とする。
深川は隅田川と小名木川の合流する地点で、行き交う船の音も騒がしければ、水鳥の鳴く声もけっこううるさかったのだろう。
雁がねの声も騒がしいが、こうして芭蕉さんと二人で静かに聞けば、風流な声にも聞こえなくもない、といもので、芭蕉の脇は、
雁がねもしづかに聞ばからびずや
酒しゐならふこの比の月 芭蕉
(雁がねもしづかに聞ばからびずや酒しゐならふこの比の月)
「酒しゐ」は酒を強いること、無理に勧めることだが、十三夜から月見の宴が続くと、お客さんに酒を勧めて飲ませるのに慣れてしまった、とやや照れたように言う。
普通の酒飲みなら酒しゐは普通のことで、「まあ飲めや、何俺の酒が飲めねえだと、べらんめえ」というところだが、「朝顔に我は飯食う男哉」の芭蕉さんのことだから、ようやく人に酒を勧められるようになった、ということろか。
まあ、越人さんは大の酒好きだから、早く酒しゐしてくれと思ってたところだろう。其角や嵐雪は酒のみだから、この二人との両吟は思う存分飲めたかもしれない。
芭蕉はここでも古典ネタを連発する。
六句目。
瓢箪の大きさ五石ばかり也
風にふかれて帰る市人 芭蕉
(瓢箪の大きさ五石ばかり也風にふかれて帰る市人)
『連歌俳諧集』の暉峻・中村注は、『蒙求』の許由の故事とする。『徒然草』十八段にも引用されていて、
「唐土に許由といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨は、冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり。」
とある。
まあ、五石の瓢箪を見ても「ああでかい瓢箪があるな」くらいで終わって、わざわざ買おうとは思わない。どうやって持って帰るかも問題だし、船もわざわざ瓢箪で作らなくても普通に小舟はある。
五石の瓢箪は結局売れず、出品した商人は空しく帰るのみ。
七句目。
風にふかれて帰る市人
なに事も長安は是名利の地 芭蕉
(なに事も長安は是名利の地風にふかれて帰る市人)
これは白楽天の『白氏文集』の「長安は古来名利の地、空手金無くんば行路難し」で、前句の風に吹かれて帰る市人を金がなくて何も買えなかったとする。
十一句目は舞台は日本だが古代の玄蕃寮を持ち出す。
ひとり世話やく寺の跡とり
此里に古き玄番の名をつたへ 芭蕉
(此里に古き玄番の名をつたへひとり世話やく寺の跡とり)
「玄番(げんば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 玄蕃寮のこと。また、玄蕃寮に属する役人。げんばん。
※観智院本三宝絵(984)中「治部玄蕃雅楽司等を船にのりくはへて音楽を調てゆき向に」
※俳諧・曠野(1689)員外「此里に古き玄番の名をつたへ〈芭蕉〉 足駄はかせぬ雨のあけぼの〈越人〉」
とある。
その「玄蕃寮」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「日本古代の令制官司。玄は僧,蕃は海外諸国の意で,《和名抄》は〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉と訓じている。治部省の管轄下にあって,京内の寺院・仏事,諸国の僧尼の掌握,外国使節の接待,鴻臚館(こうろかん)の管理などをつかさどった。中国では玄は道教を意味し,隋・唐では崇玄署という道士(道教を修めた人)を監督する役所が設けられたが,この役所は同時に僧尼に関することも担当した。玄蕃寮の〈玄〉はおそらくこの役所に由来するもので,日本には道士が存在しなかったので,玄で僧侶のみを指すことになったのであろう。」
とある。
古代に玄番を務めた人の末裔が今も田舎の小さな里を領有しているのであろう。それが今でも寺の跡取りの世話をしているというのが笑える。
十七句目。
物いそくさき舟路なりけり
月と花比良の高ねを北にして 芭蕉
(月と花比良の高ねを北にして物いそくさき舟路なりけり)
比良山は琵琶湖の西岸にある。それが北に見えるというのは堅田より南だろう。前句の「いそくさき(磯臭き)」を「急ぐ先」に取り成して、月見と花見に急ぐ旅人のこととする。
琵琶湖を渡るには瀬田の唐橋を渡るか矢橋(やばせ)の渡しを船で渡るかになる。
もののふの矢橋の船は速かれど
急がば廻れ瀬田の長橋
宗長法師
の歌がある。船は川止めが多くあてにならないというので宗長法師の歌になったが、江戸時代でもやはり急ぐ人は矢橋(やばせ)の渡しを選ぶ人が多かったのだろう。
直接瀬田や矢橋を出さずに「比良の高嶺」で匂わせるあたりは、匂い付けとも言える。
匂い付けは、昔からある、制の言葉を回避するためにわざとそれを連想させるものに言い換えていた、その手法から来たものではないかと思う。
それが、談林時代には、
青物使あけぼのの鴈
久堅の中間男影出で 常之
のように、逆に季語を入れなくてはいけないところを、別の言葉で季語を連想させるような手法を生み出し、芭蕉もそれを応用して、
世にふるもさらに宗祇のやどり哉 芭蕉
の句を詠んだ。
それがこの頃になって、疎句付けの手法として用いるようになったところで、「匂い付け」が誕生したのではなかったか。
二十句目は貧乏自慢というか。
破れ戸の釘うち付る春の末
みせはさびしき麦のひきはり 芭蕉
(破れ戸の釘うち付る春の末みせはさびしき麦のひきはり)
麦の碾割(ひきわり)は石臼で荒く砕いただけの麦のこと。米と混ぜて炊く。
ウィキペディアには、
「麦を精白したものを精麦という。麦粒は米に比べて煮えにくいので、先に丸麦を煮ておき、水分を捨てて粘り気を取り、米と混ぜて一緒に炊いた。これを「えまし麦」といい、湯取り法の一種である。また麦をあらかじめ煮る手間を省くため、唐臼や石臼で挽き割って粒を小さくした麦は、米と混ぜて炊くことができた。これを挽割麦という。これは主に農家の自家消費用であったが、明治十年頃からは一般にも販売されるようになった。
現在多く流通しているのはいわゆる「押し麦」であるが、これは麦を砕く代わりにローラーで平たく押しつぶし、煮えやすくしたものである。明治35年に押し麦が発明されたが、当初は麦を石臼にかけ、手押しのローラーで押して天日で干す手作業で製造していた。大正二年、発明家の鈴木忠治郎が麦の精殻・圧延機を開発し、精麦過程が機械化された。更に鈴木は精麦機械の改良に取り組み、この「鈴木式」精麦機を備えた工場が各地に設立されて、精麦の大量生産体制が整った。」
とある。今の麦飯は押し麦を用いるが、その前は碾割を用いていた。
昔は粟や稗や黍などの雑穀を盛んに食べていたが、春も末となるとそれらは品薄になり代わりに穫れ初めの麦が並ぶようになる。
二十四句目。
人去ていまだ御坐の匂ひける
初瀬に籠る堂の片隅 芭蕉
(人去ていまだ御坐の匂ひける初瀬に籠る堂の片隅)
同じ『源氏物語』の玉鬘巻の初瀬詣での場面とも取れるが、王朝時代に初瀬詣でをする貴人の多かったので、特に誰のことでもないということで展開をしやすくしている。
こういう本説とも取れるが、それと取らなくても意味が通じるような微妙な付け方は、出典を外すという後の「軽み」につながるもので、俤付けもよりはっきり意識されるようになる。
三十句目も古典を踏まえてはいるが、それなしでもわかる句になっている。
行月のうはの空にて消さうに
砧も遠く鞍にいねぶり 芭蕉
(行月のうはの空にて消さうに砧も遠く鞍にいねぶり)
月の消えるのを明け方のこととする。さっきまで夜中の砧の音を聞いていたのに、うとうとしている間に夜が明けてしまったか、月は西の空に沈もうとしている。
戦場へ向かう兵士だろうか。長安の砧の音を思い起こし、それを夢に見たのかもしれない。
子夜呉歌 李白
長安一片月 萬戸擣衣声
秋風吹不尽 総是玉関情
何日平胡虜 良人罷遠征
長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。
の夫の側からの句であろう。
馬上での居眠りに月といえば、『野ざらし紀行』の、
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり 芭蕉
の句も思い浮かぶ。
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