今日も晴れ。五月十日にも行った薔薇の咲いてる公園(荏子田太陽公園)へ行ってみた。秋薔薇は咲き初めでちらほらと咲いていた。
旧暦八月も今日で終わり。明日からは晩秋。平和だね。鈴呂屋は平和に賛成します。
岸田政権はアベノミクスにしがみつく勢力が不安に思うのは無理ないと思う。一体どの方向に行くのか、今の時点では予測しがたい。岸田政権の評価は来年になってから確定するのではないかと思う。そこで不満が噴出して細田派が離反すると、やはり一年かな。
まあ、マス護美と左翼政党は自民党の誰がなっても同じことを言い、同じことをする。まずはスキャンダル探しだろう。総裁選の頃からマスコミを意識して発言がぶれているのも気になる。
延宝五年冬に芭蕉(桃青)、素堂(信章)に京から来た信徳を加えて「あら何共なや」の巻百韻を巻き、続けて六年春に「さぞな都」の巻、「物の名も」の巻百韻を興行し、延宝四年の「奉納貳百韻」と合わせて『桃青三百韻 附両吟二百韻』が刊行される。
まずは「あら何共なや」から、まずは四句目。
居あひぬき霰の玉やみだすらん
拙者名字は風の篠原 桃青
(居あひぬき霰の玉やみだすらん拙者名字は風の篠原)
霰と言えば、
もののふの矢並つくろふ籠手の上に
霰たばしる那須の篠原
源実朝(金槐和歌集)
の歌がある。霰の玉を飛び散らすというので、名字は篠原、人呼んで風の篠原、となる。抜刀術の名手のようだ。
こういうありそうな架空の人名を作ってしまう付け方は、元禄の時代になってもしばしば見られる。
二十二句目は金メッキをネタにしている。
花の色朱鞘をのこす夕まぐれ
いつ焼つけの岸の欵冬 桃青
(花の色朱鞘をのこす夕まぐれいつ焼つけの岸の欵冬)
「焼つけ」はメッキのことで欵冬は「やまぶき」と読む。前句の夕暮れの桜が赤く染まって朱鞘のようだというのに応じ、黄金色の山吹の花はいつ金メッキをしたのかという意味になる。
なお、めっきの技術についてはウィキペディアに、
「日本へは仏教とともに技術が伝来したといわれている。1871年に偶然発見された仁徳天皇陵の埋葬品である甲冑(4~5世紀頃)が日本最古である可能性(埋葬者は仁徳天皇と確定していない)があるが、甲冑は埋め直しが行なわれたため現存していない。」
とある。また、エキサイト辞書には「平凡社 世界大百科事典」の「鍍金」の項目が載っていて、
「アマルガム鍍金は江戸時代に書かれた《装剣奇賞》によると,その一つは,器物の表面をよく磨き,梅酢で洗浄し,砥粉(とのこ)と水銀を合わせてすりつけた上に金箔を置き,火であぶることを2,3度くりかえす箔鍍金法である。もう一つは,灰汁でよく器物を煮,その上を枝炭や砂で磨き,梅酢で洗ったのち,金粉と水銀をよく混合したアマルガムを塗布し,熱を加えると水銀が蒸発し金だけが表面に残る。これを2度ほどくりかえし,鉄針を横にしてこすり,刷毛で磨き,緑青で色上げする方法である。上代では後者に近い方法がとられたものと推定される。アマルガム鍍金は水銀を蒸発させるときに生ずるガスが有害で,人畜の皮膚や呼吸を冒すばかりでなく生命も危険である。平安時代以降には,素地の表面に水銀を塗り,金箔をはって箔を焼きつける技法もあらわれた。また水銀有毒ガスの危険を免れるため,そして鍍金と同様の効果をあげるため,漆で金箔を付着させる漆箔法が塗金法として開発されている。」
とある。
二十八句目は、
双六の菩薩も爰に伊達姿
衆生の銭をすくひとらるる 桃青
(双六の菩薩も爰に伊達姿衆生の銭をすくひとらるる)
前句の双六を浄土双六ではなくギャンブルに用いる盤双六に転じる。今でいうバックギャモンと同系のゲームで、『鳥獣人物戯画』では猿が双六盤を担いでいる。
菩薩が伊達姿で賭場を開いて、衆生救済どころか、衆生の銭を掬い取る。桃青ならではなシュール展開になる。
シュールと言えば八十二句目の、
雲助のたな引空に来にけらし
幽霊と成て娑婆の小盗 桃青
(雲助のたな引空に来にけらし幽霊と成て娑婆の小盗)
空中に漂っているということで前句の雲助を幽霊とした。ただ、雲助はこの頃からいかにも小盗みをしそうなならず者というイメージだったようだ。
八十八句目はシュールな部分とリアルな部分とが共存している。
米袋口をむすんで肩にかけ
木賃の夕部風の三郎 桃青
(米袋口をむすんで肩にかけ木賃の夕部風の三郎)
木賃宿はウィキペディアに、
「本来の意味は、江戸時代以前の街道筋で、燃料代程度もしくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた最下層の旅籠の意味である。宿泊者は大部屋で、寝具も自己負担が珍しくなく、棒鼻と呼ばれた宿場町の外縁部に位置した。食事は宿泊客が米など食材を持ち込み、薪代相当分を払って料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「薪」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれた。」
とある。
米持ち込みだが、旅ともなるとさすがに米俵ではなく、何日分かの米を入れる米袋があったのだろう。
風の神のことを昔は「風の三郎」といったらしく、宮沢賢治の『風の又三郎』もそこから来ているという。何で風の三郎というかについてはよくわからない。
ウィキペディアの「風神」の所には、
「第3義には、江戸時代の日本にいた乞食の一種で、風邪が流行った時に風邪の疫病神を追い払うと称して門口に立ち、面をかぶり鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして金品をねだる者、すなわち「風神払/風の神払い(かぜのかみはらい)」を指す。」
とあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にも、
「③ こじきの一種。江戸時代、風邪がはやった時、風の神を追い払うといって、仮面をかぶり、太鼓を打って、金品をもらい歩いた者。風の神払い。」
とある。この風の神払いが木賃宿に泊まる分には現実にいかにもありそうなことだが、「風の三郎」とすることで、風の神様が木賃宿に泊まるという幻想が生まれる。
九十七句目は謡曲の言葉を用いた句で、
畠にかはる芝居さびしき
この翁茶屋をする事七度迄 桃青
(この翁茶屋をする事七度迄畠にかはる芝居さびしき)
の「七度迄」は謡曲『白髭』の、
「翁答へて申すやう、われ人寿、六十歳の初めより、この山の主として、この湖の七度まで、蘆原になりしをも、正に見たりし翁なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.9255-9259). Yamatouta e books. Kindle 版.より)
の一節から来ている。
本地垂迹に基づいた近江白髭神社の起源をテーマにした能で、蘆原中つ国に住む翁を描いた部分になる。仏法に帰依し白髭の神となる。
句の方は老人が芝居が来るたびに芝居茶屋を七度やって、そのたびに芝居が去ると畠に戻るのが淋しいとする。
「さぞな都」の巻の十五句目は衆道ネタになる。
二人のわかの浪人小姓
竹馬にちぎれたり共此具足 桃青
(竹馬にちぎれたり共此具足二人のわかの浪人小姓)
「ちぎれたり共此具足」の言葉は謡曲『鉢木』の、
「鎌倉に御大事あらば、ちぎれたりともこの具足取つて投げかけ、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの 馬に乗り、一番に馳せ参じ着到につき」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.61046-61050). Yamatouta e books. Kindle 版. )
から来ている。いわゆる、「いざ鎌倉」の場面だ。
前句の浪人小姓はどこの若様に仕えているか知らないが、それでも竹馬の友でもあり契りを結んでいる。「ちぎれたり」を「契る」と掛けて用いている。
二十四句目。
眉を取袖ふさがする花薄
野風もいまは所帯持なり 桃青
(眉を取袖ふさがする花薄野風もいまは所帯持なり)
の句は、前句の眉を抜いて振袖の袖を短くして脇を塞いで、いわゆる既婚者の姿になった「花薄」というところから、花薄の夫は野風だとする。
「花薄」に「野風」は付け合いだが、「眉を取袖ふさがする」「所帯持なり」で雅と俗が並行した展開になるが、この方法でも幻想を生み出せる。
六十句目の展開の仕方もこれに似ている。
しなひ打大夜着の裏おもて迄
鞍馬僧正床入の山 桃青
(しなひ打大夜着の裏おもて迄鞍馬僧正床入の山)
ウィキペディアの鞍馬天狗のところに、
「鞍馬天狗(くらまてんぐ)は、鞍馬山の奥の僧正が谷に住むと伝えられる大天狗である。別名、鞍馬山僧正坊。」
とあるように、鞍馬僧正は鞍馬天狗のこと。
大夜着の持ち主は巨漢の鞍馬天狗だった。鞍馬天狗が床に入った姿は巨体な人間山脈のようだ。
前句の「大夜着」に「床入」は普通の展開だが、そこに鞍場天狗を持ち出すことで幻想が生まれる。
布団を山に喩えるというと、後の元禄九年になるが、
ふとん着て寝たる姿や東山 嵐雪
の句がある。
「物の名も」の巻の二十九句目。
凡命は赤土の露
いつまでか砲碌売の老の秋 桃青
(いつまでか砲碌売の老の秋凡命は赤土の露)
砲碌売(はうろくうり)は焙烙売のこと。焙烙(ほうろく)はウィキペディアに、
「低温で焼かれた素焼きの土器で、形は底が平たく縁が低い。茶葉、塩、米、豆、銀杏などを炒ったり蒸したりするのに用いる。特に「焙烙蒸し」とよばれるときもある。また、宝楽焼の鍋としても用いられる。ゴマを煎る時などに使われる、口縁部が窄まり把手の付いたものは「手焙烙」と呼ばれる。」
とある。赤土で焼いた焙烙を売る老人の命は、その赤土の露となる。
前句の赤土から焙烙売、露の命から老いの秋と付けているこの時代の物付けの句だが、それでもどこか後の蕉風の「さび」を感じさせる。
三十二句目は思いもかけぬ古典への展開をする。
駒とめて下踏打叩く雪の暮
東坡が小者竹の一村 桃青
(駒とめて下踏打叩く雪の暮東坡が小者竹の一村)
雪の暮から蘇東坡が出て来るのは、蘇東坡の「又不見雪中騎驢孟浩然 皺眉吟詩肩聳山」によるものであろう。
孟浩然が馬に乗り、東坡は従者となって孟浩然の下駄の雪を竹の棒で叩く。それを「東坡が小者」と言い放つ辺りが俳諧だ。
三十五句目は金襴緞子から紅葉の錦という古典への連想によるものだが、
緞子のそめ木しみのさす迄
土用しれ山は紺地の青あらし 桃青
(土用しれ山は紺地の青あらし緞子のそめ木しみのさす迄)
と夏の山を紺地に喩えて、展開する。
「青あらし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「青嵐(せいらん)」を訓読した語) 初夏の青葉を吹き渡る風。《季・夏》
※梵燈庵主袖下集(1384か)「青嵐、六月に吹嵐を申也。発句によし」
〘名〙 青々とした山気。また、新緑の頃、青葉の上を吹きわたる風。薫風。あおあらし。
※和漢朗詠(1018頃)下「夜極浦の波に宿すれば、青嵐吹いて皓月冷(すさま)じ〈慶滋為政〉」
※平家(13C前)三「青嵐夢を破って、その面影も見えざりけり」 〔呂温‐裴氏海昏集序〕」
とある。
染物つながりで青嵐で紺地に染まった山を土用干しして、やがて秋になれば紅葉して金襴緞子に染まって行くというわけだが、「土用しれ(土用干ししろ)」と力強く咎めてにはを用いる。
普通なら緞子の紅葉の錦に紺地まで思いつくのが精いっぱいの所だろう。そこを「青嵐」「土用干し」それを咎めてにはに、とどこまで頭の回転が速いんだと思わせる句だ。
四十四句目の
木賊色の狩衣質に置し時
貧報神の社見かぎる 桃青
(木賊色の狩衣質に置し時貧報神の社見かぎる)
は狩衣から神主さんの連想で付けるが、神主さんが狩衣を質に入れてどこかへ行ってしまったまでは誰でも思いつきそうだ。ここにもう一つ、その神社は貧乏神の神社だったという所までもう一ネタ付け加える。
七十四句目は経済ネタだが、それだけにとどまらない。
銭の文字一分もまださだまらず
掟のかはる六道の月 桃青
(銭の文字一分もまださだまらず掟のかはる六道の月)
幕府が寛永通宝を発行し、渡来銭や私鋳銭を禁止たことによって六道輪廻に必要な三途の川の六文銭にも使えなくなった。軽く風刺を込めている。
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