今日は台風一過の雲一つない天気で、明け方の空には末の三日月が出ていた。正確には八月二十六日の月になる。
散歩の途中に富士山を見たが、雪がなくなっていた、まさか三度目の初冠雪とかないよね。
最近の眞子様関連の報道が過熱している、複雑性PTSDというけど、マス護美の方こそ大きな責任があるのではないかと思う。まあ、ダイアナ妃はパパラッチで死んだが、同じ過ちを繰り返さないでほしい。
あと、ネットで眞子様と小室さんを叩いている連中、最近は「説明責任」だとかモリカケでさんざん聞いたような言葉を使っているし、天皇制廃止だとか、どうやらあの連中が混じってきた。
反オリンピック闘争に敗北し、反ワクはさすがに左翼にもまともな連中はいるから盛り上がらなかったし、それでこっちに来たか。
さて、昨日の続きで今日は談林時代の延宝三年五月の「いと涼しき」の巻を見て行こう。
芭蕉は寛文十二(一六七二)年、藤堂藩をやめ、江戸に出ることとなった。ここで芭蕉は宗房から桃青に俳号を改める。
おそらく、貧農の出である芭蕉に身分社会の壁は厚く、もうこれ以上の出世もないと見切りをつけたというのもあっただろうし、俳諧師として生きて見たいという野望も当然あったであろう。
同じ寛文十二年に芭蕉は『貝おほひ』を編纂し、出版している。その序文に「寛文十二年正月二十五日」という日付があり、江戸へ発つ直前と思われる。
元来文才があり、書に長け、帳簿にも通じていた芭蕉は、季吟門のつてで、日本橋本船町(ほんふなちょう)の名主、小沢太郎兵衛得入(俳号は卜尺)の家の帳簿付けをやった。田中善信の『芭蕉二つの顔』によれば、町名主は相当の激務で、業務を代行する町代(まちだい)を雇う名主が多かったという。芭蕉が江戸に出た頃は、まだ「町代」という名はなかったが、似たような業務を担当していたと思われる。今でいえば町長の秘書といったところか。かなりの要職であったと思われる。
芭蕉が江戸に来た翌年の寛文十三年九月二十一日、元号は延宝に改まる。そして、延宝三年五月、談林のリーダーとも言える宗因が江戸にやって来た。宗因の噂は芭蕉だけでなく、江戸の俳諧師たちもみんな既に知っていたことだろう。
芭蕉は江戸での盟友素堂(当時は信章)とともに、この五月に本所大徳院で行われた「いと涼しき」の巻の百韻興行参加することになる。
まずは四句目で、大徳院住職磫畫の脇、松江重頼に学び、延宝二年に江戸に来た幽山の次に桃青というあたりで、既に江戸でもかなりの評価を得ていたことが分かる。
反橋のけしきに扇ひらき来て
石壇よりも夕日こぼるる 桃青
(反橋のけしきに扇ひらき来て石壇よりも夕日こぼるる)
石檀は石で作った祭壇で石段ではない。反橋を扇に見立てての展開で、反橋の下の半円の空間にある石壇から夕日が見える。
「も」は強調のいわゆる「力も」で、「石壇より夕日こぼるるも」の倒置になる。
十三句目では芭蕉ならではの想像力を見せる。
座頭もまよふ恋路なるらし
そびへたりおもひ積て加茂の山 桃青
(そびへたりおもひ積て加茂の山座頭もまよふ恋路なるらし)
これは座頭積塔からの発想だ。
コトバンクの「デジタル大辞泉「積塔会」の解説」に、
「陰暦2月16日に、検校(けんぎょう)・勾当(こうとう)・座頭などの盲人が、京都高倉綾小路の清聚庵(せいじゅあん)に集まり、盲人の守り神である雨夜尊(あまよのみこと)を祭って酒宴を催し、平曲を語った法会。当日、勾当三人が四条河原に出て、石を積み重ねて雨夜尊を供養したところからの名。《季 春》」
とある。
九世紀平安時代の話で光孝天皇の娘の雨夜内親王の目が見えなくなり、そのために洛中の目の見えない人に世話をさせ、官位を与え、それ以来男の目の見えない人も「座頭」という官を与えたという。
以来、内親王の命日の二月十六日に座頭が集会を行い、河原で石を積むようになったという。これを座頭積塔という。
ここでは直接座頭積塔とは関係なく、そのイメージを借りながら、恋路に迷うまさに恋は盲目の座頭が、加茂の川原に高い積塔を積み上げるとする。
芭蕉らしい奇抜な発想で、宗因も予想外の展開にびっくりしたのではないかと思う。
このあと二十四句目では、
時を得たり法印法橋其外も
新筆なれどあたひいくばく 桃青
(時を得たり法印法橋其外も新筆なれどあたひいくばく)
の句を付けている。
法印は僧綱の最高位で、中世では心敬法師がこの位についている。後に僧以外にも与えられるようになり、季吟もこの頃はまだだが後に法印になる。紹巴は法眼だった。絵のほうでは狩野探幽が法印になっている。
法橋は法印・法眼よりは落ちるが、位としては立派なものだった。
法印法橋ともなれば揮毫するだけで高い値がつく。突飛な方の芭蕉ではなくリアルな方の芭蕉が見えている。
後に芭蕉が得意とするようになる経済ネタの始まりと言えよう。
三十三句目に宗因が一つのテクニックを披露する。
月の前なる雲無心なり
露時雨ふる借銭の其上に 宗因
(露時雨ふる借銭の其上に月の前なる雲無心なり)
無心は「心無い」という意味で、月を隠す雲に心無いという句だが、その無心をお金の無心と取り成し、「借銭の其上に」と展開する。
その上で、「月の前なる雲」に「露時雨ふる」と付ける。「月の前なる雲に露時雨降る」という雅の趣向と、「借銭の其上に無心なり」という俗の文脈が並行する展開になる。
さて、そのあと四十二句目で芭蕉は早速その技法を取り入れる。
口舌事手をさらさらとおしもんで
しら紙ひたす涙也けり 桃青
(口舌事手をさらさらとおしもんでしら紙ひたす涙也けり)
ここでは前句の「口舌事(夫婦などの痴話喧嘩の意味)」に「涙也けり」と、ここまでは普通の展開だが、その一方で「さらさらとおしもんで」に「しら紙ひたす」と付ける。
これは特に古典風雅の文脈ではない。これは「揉み紙」の製作工程を表す。
夫婦のいさかいに涙だけなら何の変哲もない句だが、そこに「おしもんで」「しら紙ひたす」という別の文脈を並行させている。
当時の旅に欠かせない紙子もコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「紙衣とも書く。紙で作った衣服。上質の紙を産する日本独自のもので,古くから防寒衣料や,寝具に用いられた。はり合わせた和紙をよくもみ,柿渋を塗って仕上げたもので,防寒用の胴着や下着に用いられた場合が多いが,木版で美しい模様をつけ,上着にしたものもある。産地は奥州白石,駿河安倍川などであった。」
とある。
宗因が三十三句目で見せた「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗を並行させる技法の応用で、「さらさらとおしもんでしら紙ひたす」の揉み紙の製造工程と、「口舌事手をひたす涙也けり」の恋を並行して描いてみせる。
宗因の技を盗んでさらに応用まで利かせてしまう芭蕉さんは、やはり恐るべしといえよう。
四十七句目の、
数寄は茶湯に化野の露
石灯篭月常住の影見えて 桃青
(石灯篭月常住の影見えて数寄は茶湯に化野の露)
の句は、「違え付け」という連歌の時代からある古典的な付け方で、「化野の露」の儚さに、「月常住」を対比させる。
化野(あだしの)は京都の嵯峨野に化野念仏寺があるように、古くから鳥野辺と並ぶ葬儀場だった。そこの露になるというのは死ぬという意味になる。
茶の湯に命を懸けて数寄者(茶人)も最後は化野の露と消える。それに対して常夜灯の石灯篭は永遠不滅の月のように、化野の露を照らしている。
六十七句目では芭蕉の古典への造詣を示す展開をしている。
はながみ袋形見なりけり
さる間三年はここにさし枕 桃青
(さる間三年はここにさし枕はながみ袋形見なりけり)
これは在原行平の文徳天皇の時に須磨に蟄居を余儀なくされた故事を踏まえたもので、この故事は謡曲『松風』の元にもなっている。そこには、
「さても行平三年の程、御つれづれの御舟遊び、月に心は須磨の浦の夜汐を運ぶ蜑乙女に、おととい選はれまゐらせつつ、折にふれたる名なれやとて松風村雨と召されしより、月にも馴るる須磨の蜑の」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.31866-31871). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とある。
やがて行平が都へ戻って行くとき、俳諧にふさわしく「鼻紙袋」を形見として残して行く、とする。
最後に九十三句目。
月はこととふうら店の奥
秋の風棒にかけたる干菜売 桃青
(秋の風棒にかけたる干菜売月はこととふうら店の奥)
裏通りを天秤棒に干し菜を下げた干し菜売りが通る。うらぶれた風情のある句だ。庶民の日常を描きながらも、後の「さび」や「細み」を感じさせる。
この興行での芭蕉の句は七句で素堂(信章)の九句よりも少ない。それでもどれも後の芭蕉の片鱗を感じさせる句だった。
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