今日は朝から雨。
日本はすっかりコロナの第五波が収まったが、世界はどうかと見てみると、アメリカも一回目のワクチン接種が六十六パーセントで、ペースダウンはしているが順調に進んでいるようだ。日本じゃ反ワクのことばかりが大々的に報道され、あたかも反ワクが盛り上がらない日本が遅れているかのような調子だが。新規感染者数もとっくにピークアウトして減少傾向にある。
インドも一回目のワクチン接種率が五割を越え、収束傾向にある。
ヨーロッパはラテン系はワクチン接種率も高く、感染者も少ない。ポーランド、チェコといった東欧の優等生も少ないみたいだ。
シンガポールは感染者の急増ばかりが報道されているが、イギリスの時と同様死者は少ない。ワクチン接種を進める一方で生活の方を普通に戻してしまうと、どこもこういう傾向になるのだろう。
世界的に減少傾向にあると、変異株も生じにくくなる。突然変異というのはあくまで確立だから、感染爆発すればそれだけ変異株の発生する確率が高くなる。
ワクチン接種率が高まると、感染者数の中のワクチン接種者の率が高くなる。死者数も同様だ。極端に言えば、ワクチン接種率が百パーセントなら、感染者数や死者数の中のワクチン接種者率も百パーセントになる。単純な数学的問題だ。
コロナの脅威は確実に減りつつある。恐れずに次の時代に進もう。今心配なのは中国経済の恐怖だ。日本の政情については特に心配していない。
それでは「狂句こがらし」の巻のやりなおしの続き。挙句まで。
二十五句目。
冬がれわけてひとり唐苣
しらじらと砕けしは人の骨か何 杜国
江戸時代前期には、まだ火葬や土葬などの習慣が徹底せず、死体を川原などに投げ捨てたりするので、いわゆる「野ざらし」と呼ばれる髑髏が草むらにごろごろしていても、それほど珍しいことではなかった。それらはやがて風化し、自然に砕け散ってゆき、土に帰ってゆく。
冬枯れの中で一人唐苣を摘んでいると、白く砕けた人骨のようなもを見つける。
二十六句目。
しらじらと砕けしは人の骨か何
烏賊はゑびすの国のうらかた 重五
「人の骨か何」を、砂浜に散らばる白いものと取り成す。イカの甲羅が白いので、それはイカだろう、という付けなのだが、それだけでは面白くないので、そのイカはどこか見知らぬ夷(えびす)の国の占いに用いられたものだろう、と付け加えている。(「うらかた」は占い方であって、裏方ではない。)
「ゑびす」と聞いて誰しもすぐに思い浮かべるのは、七福神の恵比寿様だろう。七福神は東の海上にある三神山の一つ、蓬莱山から、宝船に乗ってやって来ると言われている。だから、「ゑびすの国」とは蓬莱の国のことだろう。蓬莱山ではすべての生き物が白いと言われているから、そこにイカがいてもおかしくない。
ゑびすは一方で「えみし」と同様、「夷」という字を当て異民族の意味でも用いる。中国では東夷・南蛮・西戎・北狄と呼ばれ、「夷」は我々日本人の祖先である倭人を初めとして、越人、韓人などもひっくるめてそう呼んでいた。恵比寿様が漁師の姿なのも、中国人の側からみた東夷に漁撈民族のイメージがあったからだろう。東夷はかつての長江文明の末裔ということもあってか、他の蛮族に比べて一目置く所もあって、孔子も東方礼儀の国と言い、海の向こうの島国への憧れは、いつしか蓬莱山伝説を生んだのだろう。
秦の徐福も不老不死の仙薬を求めて日本に来たというし、鑑真和尚(がんじんわじょう)の日本布教への情熱も、おそらく日本に何かエキゾチックな魅せられるものがあったからだろう。マルコ・ポーロの黄金の島ジパングも、蓬莱山伝説がごっちゃになったものだろう。
二十七句目。
烏賊はゑびすの国のうらかた
あはれさの謎にもとけし郭公 野水
「し」は「じ」で否定の言葉。
恵比寿の国の占方が占っても解けないのは、ホトトギスがなぜ哀れなのかだった。
永遠の命を持つ神仙郷の住民には、死後にホトトギスとなって血を吐きながら鳴くというのが、何のことだか理解できない。
二十八句目。
あはれさの謎にもとけし郭公
秋水一斗もりつくす夜ぞ 芭蕉
「秋水」は本来は秋に黄河の水かさが増すことで、『荘子』の秋水編はそこから来ている。それとは別に秋の清らかな水を意味することもあるが、この場合は秋の新酒のことだろう。酒は一升も飲めば立派な酒豪だが、その十倍の一斗(十八リットル)となると、なかなか豪勢だ。
酒豪が何人もそろって、今日は派手に飲み明かそうぜ、というわけでホトトギスにまつわる悲しい伝説など知ったことではない。
新酒の季節とホトトギスの鳴く季節とが合わないので、前句に関しては、単なるあしらいと見た方が良い。
二十九句目。
秋水一斗もりつくす夜ぞ
日東の李白が坊に月を見て 重五
酒といえば李白の酒好きは有名だが、ここでは李白ではなく、あえて「日東の李白」としている。基本的には架空の人物と見ていい。李白のような漢詩を得意としながらも、酒が好きで、李白の『月下独酌』の詩のように、月を見ながら月と壁に映る自分の影と三人?で酒を一斗飲み干したというから、豪勢だ。
「日東の李白」ではないが、「日東の李杜」と呼ばれた人は、これより十二年前の寛文十二年(一六七二年)に没したが、石川丈山という人がいた。三河の出身ということで、名古屋の連衆もよく知っていただろう。藤原惺窩に師事したという点では、松永貞徳とも交流があったと思われる。ただ、丈山は貞徳よりは歳が十二ほど下で、むしろ貞徳の息子の昌三と親しかった。
丈山は寛永十四年(一六三七年)に朝鮮使節が来日した際、権侙(クォンチョク?)という韓国人と筆談の際に、「日東の李杜」と褒められたという。当時の日本人は、漢文に関しては相当劣等感があったのだろう。韓国人も別に漢文に関しては母国語ではないのだが、それでも漢文に関しては韓国の方が上だという意識があり、本人はどうか知らないが、回りがすっかり有頂天になってしまったのではなかったか。寛文十一年(1671年)に刊行された『覆醤集(ふしょうしゅう)』の序文にもそのことが記された。
実際の丈山の詩を一つ紹介しておこう。
驟雨
冥色分高漢 雷聲過遠山
晩涼殘雨外 月潔斷雲間
暗い色が銀河を分かち
遠山をよぎるかみなり
夕暮は涼しく残雨の外
破れた雲に月は清らに
三十句目。
日東の李白が坊に月を見て
巾に木槿をはさむ琵琶打 荷兮
『太平広記』巻第二百五、楽三に、玄宗皇帝が愛した羯鼓の名手璡(しん)が、頭に絹の帽子を載せ、その上に槿の花を置き、『舞山香』という曲を一曲演奏し、滑り落ちることがなかった、それだけ体を微動だにさせずに演奏したという話が収録されている。
李白も玄宗皇帝の時代の人ということで、この物語を本説として、日東の李白の月見の宴に琵琶の名手が頭巾の上に槿をはさみ、それを落とさずに演奏した、と付ける。
二裏、三十一句目。
巾に木槿をはさむ琵琶打
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに 芭蕉
牛や馬は死ぬとすぐに専門の処理業者がやってきて解体し、使える部分は持ち帰り、使えない部分もそれ専用の処理場に集められる。いわゆる穢多と呼ばれる人たちの仕事だ。
飼い主はこの時何もすることはない。馬の場合は江戸後期だと馬頭観音塔を建てて弔うが、この時代はよくわからない。
まして牛の場合はどうだったのか。後世には残らなくても、何らかの形で祭壇を設けて弔っていたのではないかと思う。
前句の琵琶法師がその現場を訪れて、そっと槿の花を添える。
三十二句目。
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに
箕に鮗の魚をいただき 杜国
鮗(このしろ)というと、『奥の細道』の室の八島の所に、「このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨むね世に伝ふ事も侍はべりし。」とある。
ウィキペディアには、
「『慈元抄』では、コノシロの名称は戦国期ごろ「ツナシ」に代わり広まったという。大量に獲れたために下魚扱いされ、「飯の代わりにする魚」の意から「飯代魚(このしろ)」と呼ばれたと伝わる。これは、古くは「飯」のことを「コ」や「コオ」といい、また、雑炊に入れる煮付けや鮓(すし)の上にのせる魚肉なども「コ」や「コオ」といったところから。また『慈元抄』や『物類称呼』には、出産児の健康を祈って地中に埋める風習から「児(こ)の代(しろ)」と云うとある。当て字でコノシロを幼子の代役の意味で「児の代」、娘の代役の意味で「娘の代」と書くことがある。出産時などに子供の健康を祈って、コノシロを地中に埋める習慣があった。また焼くと臭いがきついために、以下のような伝承も伝わっている。
むかし下野国の長者に美しい一人娘がいた。常陸国の国司がこれを見初めて結婚を申し出た。しかし娘には恋人がいた。そこで娘思いの親は、「娘は病死した」と国司に偽り、代わりに魚を棺に入れ、使者の前で火葬してみせた。その時棺に入れたのが、焼くと人体が焦げるような匂いがするといわれたツナシで、使者たちは娘が本当に死んだと納得し国へ帰り去った。それから後、子どもの身代わりとなったツナシはコノシロ(子の代)と呼ばれるようになった。
富士山の山頂には「このしろ池」と呼ばれる夏でも涸れない池があり、山頂にある富士山本宮浅間大社奥社の祭神木花咲耶姫の眷属である「このしろ」という魚が棲んでいるとされ、風神からの求婚を断るために女神がやはりコノシロを焼いて欺いたという同様の話が伝わっている。
また『塵塚談』には、「武士は決して食せざりしものなり、コノシロは『この城』を食うというひびきを忌(いみ)てなり」とあり、また料理する際に腹側から切り開くため、「腹切魚」と呼ばれ、武家には忌み嫌われた。そのため、江戸時代には幕府によって武士がコノシロを食べることは禁止されていたが、酢締めにして寿司にすると旨いため、庶民はコハダと称して食した。その一方で、日本の正月には膳(おせち)に「コハダの粟漬け」が残っており、縁起の良い魚としても扱われている。」
と謂れの多い魚ではある。
箕(み)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「箕」の解説」に、
「〘名〙 穀類をあおりふるって、殻やごみをよりわける農具。また、年中行事などで供具としても使う。
※播磨風土記(715頃)餝磨「箕(み)落ちし処は、仍て箕形丘(みかたをか)と号け」
とある。
この場合は、牛の弔いにコノシロを供えるということだと思う。
三十三句目。
箕に鮗の魚をいただき
わがいのりあけがたの星孕むべく 荷兮
ネット上の中谷征充さんの『空海漢詩文研究 「故贈僧正勤操大徳影讚并序」考』で、弘法大師の『故贈僧正勤操大徳影讚并序』を読むことができる。
そこには、
初母氏無嗣、中心憂之、數詣駕龍寺
玉像前 香花表誠 精勤祈息
夜夢明星入懐、遂乃有娠
初め母氏に嗣無く、中心之を憂う。數々駕龍寺に詣で、
玉像の前にて、香花をもて誠を表わし、精勤して息を祈る。
夜 明星の懐に入るを夢み、遂に乃ち娠有り。
とある。
弘法大師の懐妊にあやかって明けの明星に懐妊を祈ったが、得たのはコノシロだった。
三十四句目。
わがいのりあけがたの星孕むべく
けふはいもとのまゆかきにゆき 野水
「まゆかき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「眉描・黛」の解説」に、
〘名〙 まゆずみで眉をかくこと。また、まゆずみで眉をかくのに用いる筆。まよがき。
※白氏文集天永四年点(1113)三「青き黛(マユカキ)(〈別訓〉まゆすみ)眉を画いて眉細く長し」
とある。既婚女性は眉毛を抜いて、眉を描いていた。
結婚した妹の眉を描きに行き、妹の懐妊を祈る。
三十五句目。
けふはいもとのまゆかきにゆき
綾ひとへ居湯に志賀の花漉て 杜国
居湯(をりゆ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「居湯」の解説」に、
「〘名〙 直接釜を連結していない風呂。別にわかした湯を移し入れた風呂。湯船は流し場より低いところに作りつけにされていた。江戸時代、寛文(一六六一‐七三)末頃には、水風呂、据風呂(すえぶろ)に混同されたという。〔日葡辞書(1603‐04)〕」
とある。
ここでは当時お寺などを中心に広まりつつあった水風呂、つまり今日のような湯船にお湯に浸かる風呂であろう。
風呂に使う水に浮いた桜の花びらを、綾布で濾し取り、一風呂浴びさせてから妹の眉を描く。
挙句。
綾ひとへ居湯に志賀の花漉て
廊下は藤のかげつたふ也 重五
お寺か立派な屋敷の風呂として、廊下の障子には藤の影が映る。春爛漫をもって一巻は目出度く終わる。
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