今日は曇りで一時雨。
さて、その『野ざらし紀行』の旅で、十月の大垣滞在中に、かつて江戸で俳諧を教えた人たちと再会することになる。
延宝九年の七月二十四日に江戸滞在中の木因と会い、そこで、
木因大雅のおとづれを得て
秋とはば詞はなくて江戸の隠 素堂
鯔釣の賦に筆を棹さす 木因
鯒の子は酒乞ヒ蟹は月を見て 芭蕉
の句を詠んでいる。
せっかく秋に訪ねてきてくれたのに文才もなく何の言葉もない江戸の引き籠りです、と素堂が発句をする。
それに対し木因は、そんなことないでしょう、漢文が得意と聞いてます。ハゼ釣りの賦を書けば、流れに掉さすようにすらすらと書かれることでしょう、と答える。発句の「詞」を漢詩の一形式の「詞」として、今回は詞ではなく賦を書くとする。
そして芭蕉は、多分木因の方を「こちの子は」として酒を欲しがり、素堂を蟹に喩えて月を見ているとしたのだろう。鯒(こち)はマゴチ、メゴチなどをいうが、小さいものはハゼ釣りの外道で時々かかる。
その後嗒山も何らかの形で芭蕉の指導を受けていたのだろう。芭蕉の「天和二年三月二十日付木因宛書簡」に、
「嗒山丈御作いかが成行申候哉、是又承度候。」
とある。
この時の発句はその恩を踏まえている。
師の桜むかし拾はん落葉哉 嗒山
芭蕉さん、あなたの教えを受けたことがありますが、その時の芭蕉さんがくれた桜(教えられたことの比喩)も今は落葉になってしまってます、とかつて受けた恩と自らの未熟さとを謙虚に詠む。
これに芭蕉は脇でこう答える。
師の桜むかし拾はん落葉哉
薄を霜の髭四十一 芭蕉
(師の桜むかし拾はん落葉哉薄を霜の髭四十一)
発句に対し、桜だなんてとんでもない。私も霜の降りた薄のような無精ひげを生やした四十一歳になる男です、と答える。
当時は四十で初老と呼ばれたが、破笠の語るところによると、貞享期に初めて会った芭蕉は四十一、二歳なのに「六十有余の老人」に見えたという。
十句目は空想趣味の句。
武かれと聟の心やためすらん
破軍の誓ヒ餅北に搗 芭蕉
(武かれと聟の心やためすらん破軍の誓ヒ餅北に搗)
「破軍」は破軍星のことで、北斗七星の柄杓の柄の一番端の星。剣の先に見立てられ、古代の北辰(北極星)信仰と習合した妙見菩薩と結びつくことで、千葉氏や九戸氏が妙見菩薩を一族の守り神とした。
いずれにせよ破軍は軍神として信仰されていた。敵軍を破るに掛けて戦勝祈願に北の方角で餅を搗いたと、何となくありそうな話を作る。
十七句目も、
寄手を招く水曳の麾
花を射て梢を船に贈けり 芭蕉
(花を射て梢を船に贈けり寄手を招く水曳の麾)
と、巌上の桜の枝を弓で射落として、その梢に水引を付けて敵方の船にプレゼントするという、軍記物にありそうな物語を作る。
三十三句目。
二疋の牛を市に吟ずる
鸚兮鵡兮朝の喧き 芭蕉
(鸚兮鵡兮朝の喧き二疋の牛を市に吟ずる)
「鸚兮鵡兮」は「あうなれやむなれや」と読む。オウムや九官鳥は長崎を通じて輸入されて、人の声を真似するということで人気を博していた。
市場でもオウムが来れば人だかりができて、「おう」だの「む」だの言って騒がしかったのだろう。「オウム」という言葉の響きがどこか牛の声に似ているところから、「おう」だの「む」だの二疋の牛かっ、て突っ込みたくなったのか。
この巻でも、江戸の都会での現実的な句は見られない。古典趣味と空想に走っていた。長い隠棲生活が、芭蕉を浮世離れさせてしまったのかもしれない。
そこから抜け出すきっかけになったのが、名古屋で興行で、荷兮編『冬の日』に収録された五歌仙だった。
最初の歌仙の発句は芭蕉で、
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉
の句だった。字余り破調の句は、天和調の特徴でもある。初めて対する名古屋の連衆の前で、都会の風を吹かせたかったのかもしれない。
竹斎は江戸時代の初期に流行した仮名草子のキャラクターで、天和に再版された『竹斎』は、絵本のように紙面いっぱいに絵が刷られていて、その上の余白に文字が書き込まれているというもので、今日で言えば漫画のようなものだ。
かつて名医の誉れ高かった養父薬師(やぶくすし)の似せもので、狂歌を詠みながら、磁石山(じしゃくさん)の石で作った吸い膏薬(こうやく)のような妖しげなアイテムを使い、時には人助けもするが、たいていは失敗し、ほうほうの体で逃げ出す。
自分を「狂句こがらし」だと言い放ち、それを仮名草子のキャラに例えるというこの発句は、田舎の真面目な連衆を挑発する意図もあったのではないかと思う。
そのあとの名古屋の連衆の句だが、
たそやとばしるかさの山茶花 野水
有明の主水に酒屋つくらせて 荷兮
かしらの露をふるふあかむま 重五
朝鮮のほそりすすきのにほひなき 杜国
ひのちりちりに野に米を刈 正平
初裏
わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水
という調子だった。「有明の主水」も特に当時の有名人というわけでもなく、それっぽい名前を付けたもので、談林時代だと有名人や有名人の名前をもじって今風にしたものが多かったが、案外これは新しかったのではないか。
鈴呂屋書庫にあげている「狂句こがらし」の巻の解説はおそらく最初に俳諧一巻を読んでみようかと思い立った時の古いもので、一順したあとだと、見方を変えなくてはならない。
「朝鮮のほそりすすき」は未だに謎だ。そのあとの正平の句、野水の句も隠士を気取った句で、むしろこうした発想が芭蕉に刺激を与えていたのかもしれない。
そうなると、その後の句も見方を変えなくてはならない。
八句目。
わがいほは鷺にやどかすあたりにて
髪はやすまをしのぶ身のほど 芭蕉
(わがいほは鷺にやどかすあたりにて髪はやすまをしのぶ身のほど)
あるあるネタは芭蕉が初期の頃から得意としていたが、延宝天和の頃は空想趣味の方が受けがよかったのか、鳴りを潜めていた感があった。
この句はむしろ、名古屋の連衆に刺激を受けて、芭蕉が本来得意としていたこのパターンをはっと思い出した瞬間だったのかもしれない。
そのあとの、
いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五
きえぬそとばにすごすごとなく 荷兮
影法のあかつきさむく火を燒て 芭蕉
の展開も、重五の駆け込み寺的な一時的に尼になった子持ちの女性、それをさらに未亡人へと転じる、リアルでいて人情味あふれるこの展開に、むしろ芭蕉の方が衝撃を受けたのかもしれない。芭蕉の付け句は、寛文の頃の貞徳翁十三回忌追善俳諧三十一句目の、
秋によしのの山のとんせい
在明の影法師のみ友として 宗房
の句を思い出し、最近使ってなかったこの貞門時代のこのパターンが、今の時代には生かせると思ったのかもしれない。
十八句目は、前句が王朝時代の空想ネタだった。
二の尼に近衛の花のさかりきく
蝶はむぐらにとばかり鼻かむ 芭蕉
(二の尼に近衛の花のさかりきく蝶はむぐらにとばかり鼻かむ)
この種のネタは天和の頃にはよくある展開だったので、芭蕉としてもややほっとした感じがしたのではないか。
かつての宮廷で蝶のように華やかに舞っていた身も、今や近衛の糸桜どころか、こんな雑草にとまる蝶になってしまったと涙ぐむ。「鼻かむ」というのは泣くことを間接的に言う言いまわして、風雅なようだが、何か鼻水でぐしゅぐしゅになった顔が浮かんできそうで、俳味がある。
二十八句目も古典に密着した句で、
あはれさの謎にもとけし郭公
秋水一斗もりつくす夜ぞ 芭蕉
(あはれさの謎にもとけし郭公秋水一斗もりつくす夜ぞ)
「秋水」は本来は秋に黄河の水かさが増すことで、『荘子』の秋水編はそこから来ている。それとは別に秋の清らかな水を意味することもあるが、この場合は秋の新酒のことだろう。酒は一升も飲めば立派な酒豪だが、その十倍の一斗(十八リットル)となると、なかなか豪勢だ。
酒豪が何人もそろって、今日は派手に飲み明かそうぜ、というわけでホトトギスにまつわる悲しい伝説など知ったことではない。
新酒の季節とホトトギスの鳴く季節とが合わないので、前句に関しては、単なるあしらいと見た方が良い。
三十一句目。
巾に木槿をはさむ琵琶打
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに 芭蕉
(うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに巾に木槿をはさむ琵琶打)
牛や馬は死ぬとすぐに専門の処理業者がやってきて解体し、使える部分は持ち帰り、使えない部分もそれ専用の処理場に集められる。いわゆる穢多と呼ばれる人たちの仕事だ。
飼い主はこの時何もすることはない。馬の場合は江戸後期だと馬頭観音塔を建てて弔うが、この時代はよくわからない。
まして牛の場合はどうだったのか。後世には残らなくても、何らかの形で祭壇を設けて弔っていたのではないかと思う。
前句の琵琶法師がその現場を訪れて、そっと槿の花を添える。
この一巻は芭蕉が『俳諧次韻』の「世に有て」の巻で試みたことを、意外なことに名古屋の連衆が受け継いでいてくれて、これこそが自分の求めていた新風だと確信した瞬間だったといってもいいのではないかと思う。
越人が、「汝等は当流開基の次韻といふ、二百五十韻の集はしらぬか。」と言ったのも、「世に有て」の巻に蕉風が始まったという共通認識が、名古屋の連衆の間にあったからではないかと思う。
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