昨日の夜は夕立があった。朝は晴れている。
子供の頃、遠足で学校から歩いて行った名もなき山の方へ行った。東名高速のすぐ脇だったという曖昧な記憶しかないが、今でも山は残っている。ただ、柵がしてあり入口はアコーディオン・フェンスがあって入れなかった。
山を真っ二つにして東名高速を通したような場所で、向かい側の山は道路になっていて眺めが良い。
東京のコロナの新規感染者数も二日続けて二百人を切り、このまま適度な自粛をもう少し続けて行けば、第一次コロナ大戦も終戦にならないかな。甘いか。
では昨日の続き。
延宝三年夏に宗因に逢うこともでき、次の年の春には芭蕉(桃青)と素堂(信章)だけで天神様で奉納貳百韻興行を行う。前年の興行も大徳寺で行われていたが、この頃の俳諧興行は寺社で行うことが多かった。広い会場を選ぶことで、おそらく興行は公開されてたのではないかと思う。
江戸には三大天神というのがあって、湯島天満宮、亀戸天神社、谷保天満宮のことだが谷保はもとより亀戸も遠いので、おそらく会場は湯島天満宮であろう。
公開での興行となれば、句を付けあぐねて詰まってしまう場面は観客に見せられない。観客を飽きさせないためにもスピード感が重視される。このライブでのスピード感の行き着くところは、西鶴の矢数俳諧だった。ただ、芭蕉はその方向には向かわなかった。
とはいえ、延宝四年春の奉納貳百韻興行は公開された可能性が大きい。二百韻もおそらく一日で興行されたのではないかと思う。
第一百韻は、
此梅に牛も初音と鳴つべし 桃青
の句で始まる。
天神様は菅原道真公で梅に縁がある。それに加えて前年やって来た宗因は「梅翁」とも呼ばれていた。この梅翁に続けとばかりに鈍重な牛である我々も負けずとここで興行を行うことにする。
牛は天神様の神使でもある。宗因流を引き継ぐという決意の一句だった。
五句目の、
酢味噌まじりの野辺の下萌
摺鉢を若紫のすりごろも 桃青
(酢味噌まじりの野辺の下萌摺鉢を若紫のすりごろも)
の句は、
春日野の若紫の摺り衣
しのぶの乱れかぎり知られず
在原業平
の歌を本歌としている。
若菜を酢味噌に混ぜて摺り鉢で摺り潰し、ペーストを作っているのだろう。鉢を染める色が昔の原始的な摺り染めの衣のような荒っぽい模様を描いている。
延宝八年の、
柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな 桃青
の趣向にも通じるものがある。この発句の方は、風で吹き集められた木の葉は抹茶を立てるときのようだという句だ。
十五句目は、
森の下風木の葉六ぱう
真葛原ふまれてはふて逃にけり 信章
(真葛原ふまれてはふて逃にけり森の下風木の葉六ぱう)
で、前句の「森の下風」に「真葛原」という古典の趣向で繋ぐ一方で、「木の葉六方」に「踏まれて這ふて逃にけり」という俗を並行して付ける、宗因から学んだ付け方だ。
「木の葉六方」は木葉武者と六方者のことで、木葉武者は取るに足らない武士、今でも「こっぱ役人」という言葉は残っている。
「六方者」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「万治(まんじ)・寛文(かんぶん)年間(1658~73)を中心に江戸市中を横行した男伊達(だて)。六法者とも書く。大撫付髪(おおなでつけがみ)、惣髪(そうはつ)、茶筅髪(ちゃせんがみ)に、ビロード襟の着物などを着て、丈も膝(ひざ)のところぐらいまでにし、褄(つま)を跳ね返らせ、無反(むそり)の長刀を閂(かんぬき)に差し、大手を振って歩いた。このかっこうから六方者という名称がおこったといわれる。御法(ごほう)(五法)を破る無法者(六法者)の意味ともいう。また旗本奴の六法組の者とも、旗本奴の六団体の総称ともいうが、いずれも明確ではない。ことばもなまぬるいことを嫌って六方詞(ことば)という特殊語を使い、博奕(ばくち)、喧嘩(けんか)、辻斬(つじぎ)りなど傍若無人にふるまった。[稲垣史生]」
とある。
木の葉は風に吹き散らされ、六方は「六方を踏む」というと歌舞伎狂言の所作を意味する。
江戸も寛文年間にはこういう連中が闊歩していたが、延宝から元禄に掛けて世の中が安定してくるといつの間にいなくなっていったか。
元禄五年の「洗足に」の巻の頃にはせいぜい単羽織を着て粋がってる連中がいて、
今はやる単羽織を着つれ立チ
奉行の鑓に誰もかくるる 芭蕉
というところだったか。芭蕉の現実的な方がよく表れている。
二十七句目の、
かみなりの太鼓うらめしの中
地にあらば石臼などとちかひてし 桃青
(地にあらば石臼などとちかひてしかみなりの太鼓うらめしの中)
の句は、白楽天の『長恨歌』の一節、
在天願作比翼鳥 在地願為連理枝
(天に在りては願はくば比翼の鳥と作り、地に在りては願はくば連理の枝と為らん)
のパロディーのになっている。
在天願作雷太鼓 在地願為石碾臼
(天に在りては願はくば雷の太鼓と作り、地に在りては願はくば石臼と為らん)
というところか。
太鼓は雷様に寄り添い、碾き臼は上臼と下臼を重ねて摺り合わす。
これは芭蕉の豊かな想像力がよく表れている。
四十七句目。
ももとせの餓鬼も人数の月
大無尽世尊を親に取たてて 桃青
(大無尽世尊を親に取たててももとせの餓鬼も人数の月)
大無尽は頼母子講をいみする「無尽」のさらに大掛かりなものという意味で、なにしろそれは世尊(お釈迦様)のやる頼母子講だから、そんじょそこらの普通の無尽ではない。
「頼母子講」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。」
とある。
ここではお釈迦様(世尊)が大勢の餓鬼から金を集めて頼母子講をやっていると、芭蕉お得意のシュールな空想で展開する。
六十二句目の、
照つけて色の黒さや侘つらん
わたもちのみいら眼前の月 桃青
(照つけて色の黒さや侘つらんわたもちのみいら眼前の月)
は怪奇趣味と言ってもいい。この頃は百物語などの怪談が流行した時期でもあった。
「わた」は腸(はらわた)のこと。ミイラにはなっているけど腸(はらわた)は損なわれていない。だから月を見ても我が身の色の黒さに悩み、断腸の思いになる。
六十四句目では一転して現実のシリアスな問題を提起する。
飢饉年よはりはてぬる秋の暮
多くは傷寒萩の上風 桃青
(飢饉年よはりはてぬる秋の暮多くは傷寒萩の上風)
「傷寒」は腸チフスなどを指す場合もあるが、古くからある傷寒論で論じられていたのは発熱を伴う病気を広く表す傷寒で、風邪やインフルエンザなどを指していたと思われる。おそらく今日の新型コロナも傷寒の一種なのだろう。ウィキペディアに、
「傷寒には広義の意味と狭義の意味の二つがある。 広義の意味では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義の意味では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。」
とある。
飢饉で死ぬ人の多くはこうした傷寒で、餓死する人よりも多かったりした。餓死する前に、体が衰弱した時点で傷寒にかかって死んでいたのだろう。
ここでも「秋の暮」「萩の上風」という雅の文脈と、「飢饉年よはりはてぬる」「多くは傷寒」という俗の文脈が並行している。
この平行法はこの後もしばらく続く。
飢饉年よはりはてぬる秋の暮 信章
多くは傷寒萩の上風 桃青
一葉づつ柳の髪やはげぬらん 信章
これも虚空にはいしげじげじ 桃青
判官の身はうき雲のさだめなき 信章
時雨ふり置むかし浄瑠璃 桃青
おもくれたらうさいかたばち山端に 信章
松ふく風や風呂屋ものなる 桃青
このあたりの展開の仕方は、秋の暮れ→荻の上風→一葉→虚空→浮雲→時雨→山端→松ふく風といった古典のわりとありきたりな連想で句を繋いで、そこに飢饉→傷寒→はげ→ゲジゲジ→判官→浄瑠璃→弄斎・片撥→風呂屋ものと当世流行のネタを展開している。
単純な展開の仕方なので、短時間にたくさんの句を詠むには適したやり方だったのだろう。
八十九句目は民話風の狐ネタになる。
わけ入部屋は小野の細みち
忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん 桃青
(忍ぶ夜は狐のあなにまよふらんわけ入部屋は小野の細みち)
美女に誘われて部屋に行ったらいつの間にか眠ってしまい、気付いたら野原の真ん中の細道に横たわっていた。よくある話だ。
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