2021年10月9日土曜日

 今日の東京の新規感染者数は82人で、終に百人を切った。まだまだ下げ止まらない。ワクチン恐るべし。
 双子のパンダの赤ちゃんの名前が決まったようで、確か曉曉(ヒャウヒャウ)と蕾蕾(レイレイ)だったかな。旧仮名だとゲウゲウとライライ、北京語だとシャオシャオとレイレイ。
 テキサス州の中絶禁止のニュースを見て、何で西洋の男って自分の首を絞めるようなことをするのかな、と思う。出来ちゃっても簡単に中絶できれば、それだけ安全に遊べるってことではないか。わざわざセックスのハードルを高くするようなことは、男の立場としても疑問だ。これで女性が身を固くしたら、結局レイプ以外に手がなくなる。
 あと、鈴呂屋書庫に元禄七年夏の「新麦は」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは「八人や」の巻の続き。

初裏、九句目。

   薄がもとの乞食斬らむ
 旦には箔椀あつて魚の骨     執筆

 夕飯の魚の汁を入れた椀が盗まれ、朝になったら乞食の所にその立派な箔椀と魚の骨が残っていた。食い物の恨み。
 十句目。

   旦には箔椀あつて魚の骨
 悟たぶんの世にもすむかな    如泉

 悟には「サトツ」とルビがある。「悟った分の」であろう。この場合の「分」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「分」の解説」の、

 「⑦ 仮にする状態。ふり。かっこう。
  ※浮世草子・風流曲三味線(1706)一「我は此世にはない分(ブン)にして隠ゐるを」

ではないかと思う。
 悟ったふりしているが世俗に染まっていて、豪華なお椀で魚を食っている。
 十一句目。

   悟たぶんの世にもすむかな
 花山や大名隠居いまぞかり    信徳

 花山は花山法皇のことであろう。二十一句目の定座に花の句があるので、これは非正花でなくてはならない。「いまぞかり」は「いまそがり」で「いらっしゃった」という意味。
 花山天皇はウィキペディアに、

 「父親の冷泉天皇も数々の逸話が残る人物であるが、花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。天皇に即位する前、高御座に美しい女官を引き入れ、性行為に及んだという話が伝わる。出家後も好色の趣味を止めることなく女性と関係を持ち、上記の「長徳の変」と呼ばれる逸話も出家後の話である。また、同時期に母娘の双方を妾とし、同時期に双方に男子を成している。その二人の子を世の人は「母腹宮」(おやばらのみや)「女腹宮」(むすめばらのみや)と呼んだ。
 また、即位式において、王冠が重いとしてこれを脱ぎ捨てるといった振る舞いや、清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとしたとの逸話がある。こうした所業がただちに表沙汰にならなかったのは、天皇に仕えた二人の賢臣、権中納言藤原義懐と左中弁藤原惟成の献身的な支えによるところが大きい。
 その一方で、彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。特に和歌においては在位中に内裏で歌合を開催し、『拾遺和歌集』を親撰し、『拾遺抄』を増補したともいわれる。」

とある。
 また、女御の藤原忯子を溺愛のあまりに死なせてしまったことから、『源氏物語』の桐壺帝のモデルとも言われている。これが出家し花山法皇になる原因だったという。
 十二句目。

   花山や大名隠居いまぞかり
 銀幾億のひかりをぞ見る     如風

 銀は「かね」と読む。関西では金より銀が多く使われていたのであろう。
 十三句目。

   銀幾億のひかりをぞ見る
 あさましの烏羽の玉蛭ひろひ捨  春澄

 蛭は血を吸うと大きく膨らみ玉のようになる。それを枕詞を付けて「うばのたま蛭」とする。
 うばたまは月に掛る枕詞でもあり、前句の「銀幾億のひかり」は月のことになる。
 十四句目。

   あさましの烏羽の玉蛭ひろひ捨
 清渚に古血きたなく       政定

 「清渚」には「キヨキナギサ」とルビがある。

 伊勢の海清き渚も霞みつつ
     春のしほひの玉もひろはず
              順徳院兵衛内侍(建保名所百首)

のように清き渚は伊勢の海で、拾う玉というのは真珠のことであろう。それがここでは丸く太った蛭の玉になる。
 十五句目。

   清渚に古血きたなく
 伊勢の海とりあげ蜑の袖ぬれて  仙菴

 「とりあげ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「取上」の解説」に、

 「① 意見、申し出などを採用すること。
  ※浄瑠璃・嫗山姥(1712頃)二「お取上も無い時は、すごすごとは戻られまい」
  ② 他人のものを無理に奪い取ること。没収すること。
  ※短歌への訣別(1946)〈臼井吉見〉「『若い精神とその洞察力を極度に恐れた』当局の検閲、とり上げ、焼き棄てのほかに」
  ③ 産婦を介抱して子を分娩させること。また、それを業とする人。取り上げ婆。
  ※雑俳・柳多留‐四六(1808)「取揚の飾をくぐる御年づよ」
  ④ 農作物をとり入れること。収穫。
  ※良人の自白(1904‐06)〈木下尚江〉前「収穫(トリアゲ)でも済んで十一月とか十二月とか迄延ばせねエことも有るめエに」

とあり、この場合は③であろう。前句を出産の血とする。
 十六句目。

   伊勢の海とりあげ蜑の袖ぬれて
 酢を燃煙我ぞまされる      常之

 燃は「タク」。伊勢は藻塩焼く煙が和歌に詠まれているが、ここでは酢を焼いて「我ぞまされる」とする。酢を焼(た)くというのがどういうことなのかよくわからない。
 十七句目。

   酢を燃煙我ぞまされる
 冬膾氷れる泪むすぼほれ     正長

 膾(なます)はコトバンクの「百科事典マイペディア「膾」の解説」に、

 「鱠とも書く。酢の物の一種。日本の古い調理法で,生肉(なましし)のつまった語といい,古くは鳥獣肉の膾,魚介肉の鱠があった。現在は魚介肉,野菜が主で,細かく切り,三杯酢,酢みそ,たで酢,醤(ひしお),からし酢,いり酒酢などであえ,生で食べる。ダイコンとニンジンのダイコン膾,アユのいかだ膾,タイやカレイの卵をいり酒でいり,作り身にまぶしつける山吹膾,ひな祭につくるアサツキ膾など。」

とある。「見渡せば」五十四句目には、

   御供にはなまぐさものの小殿原
 つづく兵膾大根         桃青

の句があり、元禄二年の「かげろふの」の巻十九句目には、

   なみは霞のふじをうごかす
 客よびて塩干ながらのいかなます 芭蕉

の句があり、元禄六年の「篠の露」の巻十三句目には、

   瀬のひびきより登る月代
 生ながら鮒は膾につくられて   凉葉

の句がある。
 「むすぼほる」は絡みついてほどけなくなることで、冬の寒さで氷った膾に涙が出る程悲しく、氷を解かすために膾を火で炙る。
 十八句目。

   冬膾氷れる泪むすぼほれ
 神の御折敷中な隔てそ      信徳

 御折敷は「ミヲシキ」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「折敷」の解説」に、

 「① 檜の片木(へぎ)で作る角盆。食器などを載せるのに使った。「足打折敷」「平折敷」「角」「そば折敷」などの種類がある。
  ※延喜廿一年京極御息所褒子歌合(921)「沈(ぢむ)のをしき四つして、銀(しろがね)の土器(かわらけ)などぞありける」
  ② 紋所の名。①をかたどったもの。

とある。
 膾を乗せた折敷の一つは神棚に供えられ、分けられるのを仲を引き裂かれることに見立てて、前句の「泪むすぼほれ」になる。
 十九句目。

   神の御折敷中な隔てそ
 娘手のべざいてん様えびす様   如泉

 弁財天と恵比須様の像を小さな女の子が両方の手に取って、二神の仲が引き裂かれたとする。
 二十句目。

   娘手のべざいてん様えびす様
 徳屋あぐり八才         春澄

 「あぐり」は大戸阿久里のことか。ウィキペディアに、

 「牧野家の譜代の家臣である大戸玄蕃吉勝の娘として生まれる。その後、徳川綱吉の母・桂昌院の侍女となる。桂昌院の指示で成貞と結婚した。
 成貞との間には、寛文7年(1667年)に長女・松子(永井貞清正室)、寛文9年(1669年)に次女・安(牧野成時正室)、寛文11年(1671年)に三女・亀を出産した。
 その後、綱吉に見初められ、江戸城・大奥へ入ったという説がある。阿久里を奪った埋め合わせとして、延宝8年(1680年)に綱吉は成貞を下総国関宿藩主に任命し、成貞は15,000石の大名に出世した。さらに、成貞は老中と並ぶ扱いを受けるようになり、元禄元年(1688年)には7万3000石に加増されている。」

とある。この巻が巻かれたのは時代的には阿久里を大奥に迎え入れた頃になり、巷で噂になっていたとしてもおかしくない。阿久里の八歳の時の話ということになる。桂昌院の侍女の頃か。
 そうなると、徳屋は徳川のことで、恐れ多いので商家の設定にして、「徳屋」としたと思われる。
 それにしても「とくやあぐりはっさい」では四文字足りない。「徳川大屋(とくがわおおおく)」の中の二字を抜いたか。
 二十一句目。

   徳屋あぐり八才
 袖は花しんこの轡はませつつ   如風

 八才の阿久里は花のような美しい袖の着物を着ているが、おしんこを咥えて、轡を嚙まされているように見える。まあ、小さくなった禰豆子ちゃんみたいで、これはこれで可愛い。
 二十二句目。

   袖は花しんこの轡はませつつ
 盃甲梅かざす月         仙菴

 盃を兜にして月に梅をかざす。

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